笠岡代官所
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笠岡代官所(かさおかだいかんしょ、かさおかだいかんじょ)は、備中国小田郡笠岡村(現・岡山県笠岡市)にあった代官所である。 現在の笠岡市域は、戦国時代には陶山氏や村上水軍の所領地であった。江戸初期の元和5年(1619年)福山に水野勝成が転封された際に笠岡は備後福山藩領となった。この時代に水野家は莫大な資本と技術を投入し新田開発、殖産興業を行い現代笠岡に続く主要な市街地が陸地化した。福山藩は元禄11年(1698年)に5代藩主水野勝岑の死去で無嗣除封となり、福山城下東端の三吉町に三吉陣屋が置かれ一時的に笠岡を含む福山藩領全域が天領(幕府直轄領)とされる。その後1699年に松平忠雅が福山藩に転封する際に笠岡は引き続き幕府領とされ倉敷代官所領となった。しかし、倉敷代官の統治する倉敷支配所の管轄範囲があまりに広域にわたり社会制度の差異の大きい地域を統轄する不具合もあり、僅か2年後の元禄13年(1700年)5月に福山藩時代の町奉行所跡地に幕府代官所(笠岡代官所)が設けられ独立。福山藩の代官経験のある山木与三左衛門が初代代官に任命された。笠岡代官所の成立により倉敷支配所のうち、西部にあたる地域(備中国西部から備後国南部にある幕府直轄領)が移管された、これは大部分が旧備後福山藩領部分にあたる。笠岡代官所はその後幕末まで約170年間存続し、その間に42代の代官が在籍した。とくに、井戸正明と早川正紀の2名は著名である。 享保17年(1732年)に着任した14代代官(石見国大森代官との兼任)の井戸正明(平左衛門)は折からの飢饉(享保の飢饉)への対処を迫られた、井戸は幕府の指示を待たず独断で蔵を開いて窮民に米を支給、年貢を減免する一方で、サツマイモ(甘藷)の栽培を奨励したことにより危機を乗り越えた。井戸の支配地からは一人の餓死者も出さなかったとされる。このことから彼は芋代官の通称で呼ばれるようになった。なお、井戸は享保18年(1733年)に任地笠岡で没しており、笠岡の威徳寺に墓がある。 30代代官(美作国久世代官との兼任)早川正紀(八郎左衛門)も名代官として名のある人物で、領民の教育に意を払い、寛政9年(1797年)笠岡村内(笠岡市笠岡)に郷校敬業館を開校した。敬業館の初代教授には小寺清先(号は楢園。陣屋稲荷宮宮司)が任命された。敬業館は明治初年に閉鎖されたが、早川の徳を讃える「思徳之碑」と、初代教授小寺を讃える「楢園先生之碑」が残っている。 明治になり、笠岡代官所は廃止され笠岡は当初は福山県となったが、廃藩置県後の県統合で明治4年に小田県が成立しその県庁が笠岡代官所跡に置かれた。なお、翌年に深津県は県庁所在郡に因み小田県に改称している。 明治8年12月に小田県は岡山県へ編入合併し、小田県庁も廃止となる。 現在、笠岡代官所跡(小田県庁跡)は、笠岡市立笠岡小学校となっている。
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