笠岡代官所とは? わかりやすく解説

笠岡代官所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/07 00:14 UTC 版)

倉敷支配所」の記事における「笠岡代官所」の解説

笠岡代官所(かさおかだいかんしょかさおかだいかんじょ)は、備中国小田郡笠岡村(現・岡山県笠岡市にあった代官所である。 現在の笠岡市域は、戦国時代には陶山氏村上水軍所領であった江戸初期元和5年1619年福山水野勝成転封された際に笠岡備後福山藩となった。この時代水野家莫大な資本技術投入し新田開発殖産興業行い現代笠岡に続く主要な市街地が陸地化した福山藩元禄11年1698年)に5代藩主水野勝岑死去無嗣除封となり、福山城下東端三吉町三吉陣屋置かれ一時的に笠岡を含む福山藩全域天領幕府直轄領とされるその後1699年松平忠雅福山藩転封する際に笠岡引き続き幕府領とされ倉敷代官所となった。しかし、倉敷代官統治する倉敷支配所管轄範囲あまりに広域にわたり社会制度差異大き地域統轄する不具合もあり、僅か2年後元禄13年1700年5月福山藩時代町奉行所跡地幕府代官所(笠岡代官所)が設けられ独立福山藩代官経験のある山木与三左衛門初代代官任命された。笠岡代官所の成立により倉敷支配所のうち、西部にあたる地域備中国西部から備後国南部にある幕府直轄領)が移管された、これは大部分が旧備後福山藩部分にあたる。笠岡代官所はその後幕末まで170年存続しその間42代の代官在籍した。とくに、井戸正明早川正紀の2名は著名である。 享保17年1732年)に着任した14代代官(石見国大森代官との兼任)の井戸正明平左衛門)は折から飢饉享保の飢饉)への対処迫られた、井戸幕府指示待たず独断開いて窮民に米を支給年貢減免する一方でサツマイモ甘藷)の栽培奨励したことにより危機乗り越えた井戸支配地からは一人餓死者も出さなかったとされる。このことから彼は代官通称呼ばれるようになった。なお、井戸享保18年1733年)に任地笠岡没しており、笠岡威徳寺に墓がある。 30代代官美作国久世代官との兼任早川正紀八郎左衛門)も名代官として名のある人物で、領民教育に意を払い寛政9年1797年笠岡村内(笠岡市笠岡)に郷校敬業館開校した敬業館初代教授には小寺清先(号は園。陣屋稲荷宮宮司)が任命された。敬業館明治初年閉鎖されたが、早川の徳を讃える「思徳之碑」と、初代教授小寺讃える先生之碑」が残っている。 明治になり、笠岡代官所は廃止され笠岡当初福山県となったが、廃藩置県後の県統合明治4年小田県成立しその県庁が笠岡代官所跡に置かれた。なお、翌年深津県県庁所在郡に因み小田県改称している。 明治8年12月小田県岡山県編入合併し、小田県庁も廃止となる。 現在、笠岡代官所跡(小田県庁跡)は、笠岡市笠岡小学校となっている。

※この「笠岡代官所」の解説は、「倉敷支配所」の解説の一部です。
「笠岡代官所」を含む「倉敷支配所」の記事については、「倉敷支配所」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「笠岡代官所」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「笠岡代官所」の関連用語

笠岡代官所のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



笠岡代官所のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの倉敷支配所 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS