歴史上の「南京大虐殺」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 01:46 UTC 版)
松本健一は、中国では「南京大虐殺」(南京大屠殺)は一つの固有名詞であり、「歴史的に定着している言葉」であるという。また黄文雄によれば、中国の戦争には「屠城」という伝統があった。 歴史上の「南京大虐殺」には以下のようなものがある。 王敦の乱(322年 - 324年) 侯景の乱(549年)。東魏の侯景は梁の武帝の南北朝時代に、南京(当時、建康)を包囲し、陥落後「大虐殺」を行う。 太平天国の乱での南京大虐殺(1853年)。キリスト教を「拝上帝教」と解釈し、漢民族国家の再興を目指した洪秀全は南京占領時に、清国兵(満州族兵)をほぼ皆殺しにし、満州族の婦女子も焼殺して万単位の虐殺が行われた。14年間の乱の犠牲者総数は2000万人を超える。 天京事変での南京大虐殺(1856年)。太平天国軍の内紛(天京事変)で洪秀全が楊秀清軍を「大屠殺」した。 天京攻防戦(1864年) - 南京(当時、天京)における清軍(曽国荃指揮)・湘軍と太平天国軍との戦争。湘軍の趙烈文は、老人や2、3歳の幼児も虐殺され、40歳以下の若い婦女は拉致され、20万 - 30万の犠牲者が生じたと記録している。蘇瑞鏘は「湘軍版南京大虐殺」であるとし、また黄文雄は、天京攻防戦での掠奪や放火の記録は、中国政府の主張する「日本軍による大虐殺」と類似していると指摘している。 第二革命での南京大虐殺 (1913年)。辛亥革命の後に行われた清朝復活を企図した張勲による第二革命への弾圧では、国民党兵が数千殺され、日本人3人も間違えられて殺害された。時事新報は当時「南京虐殺事件」と報じた。当時、北一輝が南京を訪問し、虐殺の実態を『支那革命外史』で記す。曹汝霖は張勲のことを「あの南京大虐殺をやった男」と呼んだ。 1927年に蔣介石軍が南京占領後に外国領事館や市民に暴行・強姦を行った南京事件。 この他、南京以外での虐殺で南京大虐殺と記録としてなどの関連性が指摘されているものに、1645年の揚州大虐殺がある。揚州大虐殺の犠牲者は80万人といわれる。
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