歴史上のギヨーム
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「ギヨーム・ド・ジェローヌ」の記事における「歴史上のギヨーム」の解説
ギヨームは8世紀半ば頃、フランス北部で生まれた。父はオータン伯ティエリー4世であり、ギヨームはカール大帝の従兄弟にあたる(母オード(Aude)はカール・マルテルの娘)。カール大帝の親族かつ信頼のおける臣下として、若い頃はカール大帝の宮廷で生活していた。788年、トゥールーズ伯ショルソー(fr)がバスク貴族のアダルリック(Adalric)に捕らえられ、ガスコーニュ公ルポ2世との同盟を誓った。このため、カール大帝はショルソーが解放されると伯位を剥奪し、従兄弟ギヨームに与えた(790年)。ギヨームはガスコーニュの制圧に成功した。 793年、アブド・アッラフマーン1世の後継者ヒシャーム1世がキリスト教徒に対しジハードを行うと宣言した。ヒシャームは10万の兵を集め、その半数はアストゥリアス王国に侵攻し、残りはナルボンヌを通過しラングドックまで侵攻してきた。 ギヨームはこれに立ち向かい勝利した。また、ヴィルデーニュのオルビュー川近くで再びムスリム軍と遭遇し、激しい抵抗の末ムスリム軍をスペインまで撤退させたものの、敗北を喫した。801年、ギヨームはアクィタニア王ルートヴィヒとともにフランク人、ブルグント人、プロヴァンス人、アクィタニア人、ガスコーニュ人(バスク人)およびゴート人を率いて遠征を行い、ムーア人よりバルセロナを奪った。 804年、ギヨームはマグロンヌ教区内(diocese of Maguelonne)、ロデーヴ近郊のジェローヌ(現サン=ギレム=ル=デセール)に修道院を創建した。ギヨームはジェローヌに財産を与え、近くに修道院を持つアニアーヌのベネディクトゥス(en)にその管理を任せた。ギヨームが与えた財産の中には、カール大帝からの贈り物であった聖十字架も含まれていた。聖人伝『Vita sancti Willelmi』によると、カール大帝はその聖遺物をエルサレム司教座から受け取ったという。 806年、ギヨームは隠居し修道士となり、812年または814年の5月28日に死去した。ギヨームが死去した時、オランジュの鐘が独りでに鳴ったという。 ギヨームは家族と創建した修道院に対し遺言を遺した。804年1月28日の遺言には、妻キュネゴンドおよびギブール、故人であった両親ティエリーおよびオード、兄弟テオドエおよびアダレルム、姉妹アッバおよびベルタ、4人の息子ベルナール、ゴーセム、ティエリー、エルベール、娘ロトリンド、および甥ベルトランの名が記されていた。妻ギブールは、オランジュのムーア人ワリの寡婦で、793年から796年の間、ナルボンヌでヒシャーム1世と戦った際にギヨームにより連れてこられたと言われている。息子ベルナールはギブールの子と言われている。ギブールの洗礼前の名前はオラブルであったとされる。ギヨームは遺言の中でギブールを妻と書いているが、実際に結婚したのかそれとも愛妾であったのかは不明である。 ジェローヌは依然としてアニアーヌ修道院長の管理下にあったが、ギヨームの評判が高くなるにつれ論争の種となった。拝廊の目立たない場所からギヨームの遺体が掘り出され、聖歌隊の下の目立つ場所に埋葬されると、多くの巡礼者がギヨームに関心を持つようになり、アニアーヌ修道院長は強い不満を持つに至った。多くの偽書が双方の立場で作られ、詳細な真相は不明なままである。ジェローヌの修道院はサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の主な中継点である。この12世紀後半のロマネスク様式の修道院は、フランス革命の時に取り壊され、ニューヨークのクロイスターズ美術館で見ることができる。また、8世紀後半の写本『Sacramentaire de Gellone』が有名である。
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