歴史上のグンダハールとは? わかりやすく解説

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歴史上のグンダハール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 22:49 UTC 版)

グンテル」の記事における「歴史上のグンダハール」の解説

グンダハールは、実在明らかになっている最初ブルグント王である。彼が単独の王であったか、伝説あるよう兄弟との共同統治であったかははっきりしない歴史家であるテーベオリュンピオドロス英語版)は彼を複数形のφύλαρχος(phylarchos)の称号呼んでいることからすれば単独統治者でなかったとも考えられるアキテーヌのプロスペロスは、彼を王(rex)であるとしている。 406-407年、他のゲルマン人部族とともにブルグント人大多数ライン渡った411年グンダハール王は、アラン人の王ゴール英語版)と協力してライン下流河畔ゲルマニア・インフェリオルの地で傀儡皇帝ヨウィヌス(Jovinus)を擁立した記録には、ヨウィヌスの南ガリア戦役に関わったとある。413年にヨウィヌスが敗れると、ローマ軍司令官マギステル・ミリトゥムであったコンスタンティヌスは、ブルグントフォエデラティとしてライン左岸定住させた。後世伝説根拠として、この定住地ヴォルムス周辺であったというのが定説だが、異論もある。 430年代入りブルグント人対すフン族圧力が高まる中で、435年グンダハールはその対応として、トリーア周辺本拠とするローマ属州ベルギカ・プリマに攻め入った迎え撃つローマ将軍フラウィウス・アエティウスはこれを破るも、ブルグント国家としての権利保証した。しかし翌年436年)、アエティウスフン族傭兵引き連れブルグント攻撃し王国滅ぼしたアキテーヌのプロスペロスによればグンダハール部族多くアエティウスとの戦闘死んだとされるアエティウスは、亡国の民をローヌ川上流サヴォワ移し住まわせた。グンダハール王とその破滅は、移住させられブルグントの民や隣接するゲルマン人部族によって記憶され伝えられたものと考えられている。 王国再建したグンドバード王によって5世紀末から6世紀初頭編纂された『ブルグント法典』には、旧王国王統について、ギビコ(Gibico)、グンドマール(Gundomar)、ギスラハリウス(Gislaharius)、グンダハールの4人の記載があるが、彼らの血縁関係に関する言及はない。伝説では、ギビコ(ギューキ)はグンテルの父として、グンドマール(ゲルノート、ゲルノーズ、グットルム)とギスラハリウス(ギーゼルヘル、ギスレル)はグンテル兄弟にして共同統治者として登場する

※この「歴史上のグンダハール」の解説は、「グンテル」の解説の一部です。
「歴史上のグンダハール」を含む「グンテル」の記事については、「グンテル」の概要を参照ください。

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