歴史上のグンダハール
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グンダハールは、実在が明らかになっている最初のブルグント王である。彼が単独の王であったか、伝説にあるように兄弟との共同統治であったかははっきりしない。歴史家であるテーベのオリュンピオドロス(英語版)は彼を複数形のφύλαρχος(phylarchos)の称号で呼んでいることからすれば、単独の統治者でなかったとも考えられる。アキテーヌのプロスペロスは、彼を王(rex)であるとしている。 406-407年、他のゲルマン人部族とともにブルグント人の大多数がラインを渡った。411年、グンダハール王は、アラン人の王ゴール(英語版)と協力して、ライン下流河畔ゲルマニア・インフェリオルの地で傀儡皇帝ヨウィヌス(Jovinus)を擁立した。記録には、ヨウィヌスの南ガリア戦役に関わったとある。413年にヨウィヌスが敗れると、ローマの軍司令官(マギステル・ミリトゥム)であったコンスタンティヌスは、ブルグントをフォエデラティとしてラインの左岸に定住させた。後世の伝説を根拠として、この定住地がヴォルムス周辺であったというのが定説だが、異論もある。 430年代に入り、ブルグント人に対するフン族の圧力が高まる中で、435年、グンダハールはその対応として、トリーア周辺を本拠とするローマ属州ベルギカ・プリマに攻め入った。迎え撃つローマの将軍フラウィウス・アエティウスはこれを破るも、ブルグントの国家としての権利を保証した。しかし翌年(436年)、アエティウスはフン族の傭兵を引き連れブルグントを攻撃し、王国を滅ぼした。アキテーヌのプロスペロスによれば、グンダハールと部族の多くはアエティウスとの戦闘で死んだとされる。 アエティウスは、亡国の民をローヌ川上流のサヴォワに移し住まわせた。グンダハール王とその破滅は、移住させられたブルグントの民や隣接するゲルマン人部族によって記憶され、伝えられたものと考えられている。 王国を再建したグンドバード王によって5世紀末から6世紀初頭に編纂された『ブルグント法典』には、旧王国の王統について、ギビコ(Gibico)、グンドマール(Gundomar)、ギスラハリウス(Gislaharius)、グンダハールの4人の記載があるが、彼らの血縁関係に関する言及はない。伝説では、ギビコ(ギューキ)はグンテルの父として、グンドマール(ゲルノート、ゲルノーズ、グットルム)とギスラハリウス(ギーゼルヘル、ギスレル)はグンテルの兄弟にして共同統治者として登場する。
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