落胤説
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利勝には家康の落胤という説がある。井川春良が著した『視聴草』には家康の隠し子であることが書かれている他、徳川家の公式記録である『徳川実紀』にも説が紹介されている。この説によると、利勝は幼少時から家康の鷹狩りに随行することを許されるなど(土井家は三河譜代の家臣ではない)、破格の寵愛を受けていたためである。また当時、家康は正室の築山殿との仲が冷え切っており、そのために築山殿の悋気を恐れて他の女性に密かに手を出して利勝が生まれた、という可能性も否定できないところがある。森銑三は、父とされる信元と家康の性格を比較した時、短慮であった信元よりも、思慮深い家康の方が利勝の性格と共通する要素が深いと考察している。 第8代古河藩主の土井利里が編纂させた『土井系図』(国立国会図書館蔵)も「実家康君之御子也」と記している。土井系図や土井家史料を研究した古河の郷土史家・早川和見によると、利勝生誕の折に家康が下賜した朱印状付き短刀が土井家に伝来していたという。利勝は土井家の父母を没後も篤く弔い、出世する度に立派な法名に改めるなどしていた。 なお、利勝自身は落胤と噂されることを大変嫌っていたと伝わる。
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落胤説
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なお、朝光には頼朝の庶子であるという説がある。『朝光公記』によれば、伊豆配流中の頼朝の世話をしていた寒河尼の娘との間に生まれ、寒河尼の実家・八田家へ預けられた後、小山政光と寒河尼の三男(四男説もある)として育てられたというのが、その伝説の筋であるが、幕府の公式記録『吾妻鏡』をはじめとする当時の一級資料には、一切、このことには触れられていないことから、信憑性はないと見られている。いずれにせよ、頼朝が乳母子の関係にある朝光を可愛がっていたことは事実である。 結城家16代当主政勝が自筆し高椅明神(栃木県小山市)に納めたといわれる「結城家譜」[要文献特定詳細情報]には、朝光は仁安2年(1167年)に生れ、頼朝の嫡子だったが、頼家・実朝が将軍となったため、治承4年(1180年)、14歳で結城に移ったと記されている。
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