美濃一色氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 08:58 UTC 版)
斎藤道三の子・義龍が将軍足利義輝より認可を受けて母方の縁戚にあたる「一色」の姓を称したことに始まる家柄である(※「斎藤」から改姓した理由は父殺しの汚名を避けるためといわれている)。義龍の母・深芳野は、母方の祖父が一色義遠、或いは実の父が一色義清とされ、一色氏の血を引く人物である。また、一説によれば、義龍は母・深芳野が道三に嫁ぐ前、土岐頼芸の愛妾であった時に身籠った子(すなわち義龍が頼芸の落胤である)とするが説があり、頼芸は義遠の実子・土岐成頼の孫にあたるため、この落胤説が正しい場合(※ 江戸時代に編纂された『美濃国諸家系譜』の記述であるため創作ではないかとされている)、義龍は女系を介さない形でも一色氏の血を引いていることになる。また、異説としてかねてから土岐氏は「諸家の筆頭」(『家中竹馬記』・『土岐家聞書』)すなわち足利氏一門に属しない諸大名の中では筆頭の家柄であるという自負を持っていることが広く知られており、足利氏の一門に属する一色氏を称することで、(一色氏よりも格下である)土岐氏の権威をも否定しようとしたとする説もある。 実質的には、戦国大名の斎藤氏と同一の家柄であり、義龍・龍興父子は美濃斎藤氏の代数にも数えられている。また、龍興については美濃追放後に同盟関係にあった本願寺顕如より「一色治部大輔」と称した龍興に充てた書状(元亀2年8月23日付「顕如御書留」『大系真宗史料文書記録編4』43号)の存在が確認されるなど、龍興を指して「一色(氏)」と称した書状などの史料が複数現存しており、龍興を「斎藤氏」と称するのは織田信長ら敵対する陣営による呼称である。 斎藤義龍(一色義龍)- 左京大夫、美濃斎藤家2代、美濃一色家初代。 斎藤龍興(一色龍興)- 刑部大輔、美濃斎藤家3代、美濃一色家2代。
※この「美濃一色氏」の解説は、「一色氏」の解説の一部です。
「美濃一色氏」を含む「一色氏」の記事については、「一色氏」の概要を参照ください。
- 美濃一色氏のページへのリンク