落胆の83シーズンとワークス参戦終了
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/03 17:27 UTC 版)
「スズキ・RG-Γ500」の記事における「落胆の83シーズンとワークス参戦終了」の解説
1983年には、より軽量かつコンパクト化を推し進めたXR45でライダータイトルの防衛とメーカータイトルの8連覇達成を目論んでいた。前年度のXR40からの変更点はエンジンでもミリ単位の徹底したコンパクト化がテーマで、フレームは高剛性と軽量化のために直線的なデザインになり、アルコン溶接による継ぎ目が目立っていた。一方、ライダー陣容に変化はなく、前年度チャンピオンのフランコウンチーニを擁するチームガリーナとランディマモラを擁するヘロンスズキという体制で臨むが、チームマネージメント方式がウンチーニが所属するガリーナとマモラが所属するヘロンを新たに編成した「SRP(スズキレーシングプロモーション)」の傘下にすることでスズキの浜松本社の関与を少なくし、予算もコンパクト化。このようにマシンもレースの戦い方も「重箱の隅を突く」かのような徹底した熟成進化方向が突き詰められていた。1983年シーズンはテスト走行の段階からフレームの溶接の継ぎ目にクラックが入るトラブルや出力特性が尖り過ぎなどのライダーからの要請をシーズン開始までにクリアできず、さらにホンダのフレディ・スペンサーとヤマハのケニー・ロバーツが、シーズン開始から終了までの全12戦で全ての勝利を6勝ずつ分け合う激戦になった事もあり、このシーズンは未勝利に終わっている。また、この1983年のシーズン終了と同時に、スズキのファクトリー参戦の休止が発表され、実質上の新規開発もストップした。
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