木下弥右衛門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/24 11:45 UTC 版)
木下 弥右衛門[5][3](きのした やえもん)は、戦国時代の人物で、太閤豊臣秀吉の実父であると推定される。(詳細は下記参照)
- ^ a b 『尾張群書系図部集』『京都瑞竜寺過去帳』『木下家系図』。
- ^ a b c 加藤国光 1997, p. 634
- ^ a b 『尾張群書系図部集』には、『武林評伝』『尾陽雑記』によるとする「昌吉」との諱が載せられている[8]。『尾陽雑記』は昌吉の父国吉を氏祖として、浅井重政の子孫に創っている[9]。
- ^ 『絵本太閤記』では、筑阿弥と号した「弥助昌吉」という人物として登場。
- ^ a b 「木下弥右衛門」と記述された史料は『太閤素生記』(幕臣の土屋知貞の著作)による。『太閤記』などの伝記では、子の秀吉が仕えた松下加兵衛が烏帽子親となって元服させ、最初は故郷の地名を取って「中村藤吉郎」と名乗り、後に木下に改姓したと書かれている。なお、加兵衛もしくは信長と最初に会った時に「木の下」に立っていたのでこれを名字としたとする俗説は極めて信憑性が薄く、事実ではないと伝わられている。
- ^ 『諸系譜 第13冊』による
- ^ 『諸系譜』による。
- ^ 加藤国光 1997, pp. 634, 667.
- ^ 加藤国光 1997, p. 638.
- ^ 竹中 1894, p. 513, 『豊鑑』.
- ^ 古語の「あやし」は”卑しい”の意味。「志」は変体仮名で、平仮名の「し」にあたる。「志かなり」は、副詞「しか」+断定の助動詞「なり」で、その通りであるの意で、前行と併せると、ここでは”同様にわからない”の意味。
- ^ 加藤国光 1997, p. 637.
- ^ 『尾陽雑記』『浅井系図』では、国吉には、浅井重政の子、浅井氏政と同一人物であるとする説を述べている[12]。
- ^ 小和田 1985, pp. 51–52.
- ^ 愛知県教育会 編『国立国会図書館デジタルコレクション 尾三郷土史料叢書. 第2編 (尾陽雑記)』愛知県教育会、1932年、198-199頁 。
- ^ 渡辺 1919, p. 27.
- ^ 小和田 1985, p. 42.
- ^ 小和田 1985, pp. 42–44.
- ^ 小和田 1985, p. 44.
- ^ 愛知県教育会 1932, p. 199-200.
- ^ 小和田 1985, p. 34.
- ^ 小和田 1985, p. 36.
- ^ 愛知県名古屋市中村区。
- ^ a b c 小和田 1985, p. 37
- ^ 『太閤素生記』には元鉄砲足軽であったとの記述があるが、日本で初めて種子島に鉄砲が伝わったのが1543年8月であり、同年1月に弥右衛門が亡くなっていることなどから信憑性に疑問が持たれている[24]。
- ^ 小和田 (1985, p. 57)には、『武功夜話』を信じるならば、弥右衛門は蜂須賀正利(蜂須賀正勝の父)の配下だった可能性もあると述べられている。
- ^ 真田 1912, p. 181.
- ^ 『甫庵太閤記』では秀吉の父親は竹阿弥(筑阿弥)だとしている。なお、『太閤素生記』は『甫庵太閤記』出版の後に出たものである。
- ^ 小和田 1985, pp. 37–38.
- ^ 小和田 1985, p. 66.
- ^ 現愛知県名古屋市昭和区。
[続きの解説]
「木下弥右衛門」の続きの解説一覧
- 1 木下弥右衛門とは
- 2 木下弥右衛門の概要
- 3 脚注
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