伊勢平氏の嫡男とは? わかりやすく解説

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伊勢平氏の嫡男

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 06:11 UTC 版)

平清盛」の記事における「伊勢平氏の嫡男」の解説

永久6年1月18日1118年2月10日)、伊勢平氏棟梁である忠盛嫡男として生まれる。出身地山城国京(現在の京都市)という説が有力である。生母不明だが、もと白河法皇仕えた女房で、忠盛の妻となった女性(『中右記』によると保安元年1120年)没)である可能性が高い。『平家物語』語り本系諸本白河法皇寵愛受けて懐妊し祇園女御忠盛下賜され清盛生まれたとしている(いわゆる白河院落胤説)が、読み本系延慶本は清盛祇園女御仕えた中﨟女房の腹であったというように書いている。また、近江国胡宮神社文書(『仏舎利相承系図』)は清盛生母祇園女御の妹とし、祇園女御清盛猶子としたと記している。清盛忠盛正室の子でない(あるいは生母始め正室であったかもしれないその死後である)にもかかわらず嫡男となった背景には、後見役である祇園女御権勢があったとも考えられる大治4年1129年正月12歳従五位下左兵衛佐叙任。これについて中御門宗忠驚愕している。清盛同年3月石清水臨時祭舞人選ばれるが、清盛の馬の口取祇園女御養子とされる内大臣源有仁随身勤めていることから、幼少期清盛祇園女御庇護の下で成長した推定されている。祇園女御庇護下で育ったことから、清盛実父白河法皇であるとの噂も当時からある。落胤説事実性は乏しいものの、清盛公卿輩出したことのない院近臣伊勢平氏出身にもかかわらず令制最高職の太政大臣にまで昇進したことは、王家との身内関係当時信じられていたゆえといわれる若い頃は、鳥羽法皇第一寵臣藤原家成の邸に出入りしていた。家成は、清盛継母池禅尼従兄弟であった高階基章の娘との間に重盛・基盛が生まれるが、死別した推測される保延3年1137年忠盛熊野本宮造営した功により、清盛肥後守任じられる久安3年1147年)、継室迎えた平時子との間に宗盛生まれる。時子の父・平時信鳥羽法皇判官代として、葉室顕頼信西とともに院庁実務担当していた。 この年6月15日清盛祇園社赴くが、郎等武具咎めた神人小競り合いとなり、郎等放った矢が宝殿に当たるという事件が発生した祇園闘乱事件)。祇園社末社とする延暦寺忠盛清盛配流要求して強訴するが、鳥羽法皇延暦寺攻勢から忠盛清盛保護し清盛の罪を贖銅三十斤という罰金刑とどめたその後清盛代わり正室腹の異母弟平家盛常陸介右馬頭任じられ頭角を現す。既に母を亡くし問題起こした清盛替わって母方後見確かな家盛が家督を継ぐ可能性もあった。 しかし、久安5年1149年)に家盛は急死したため、清盛嫡流としての地位磐石となる。家盛の同母弟・頼盛は15歳年齢差もあって統制下に入り清盛兄弟間の第二の者として遇するが、経盛・教盛に比べてその関係は微妙なものであり続けた安芸守任じられ瀬戸内海制海権手にすることで莫大な利益をあげ、父と共に西国へと勢力拡大した。またその頃より宮島厳島神社信仰するようになり、仁平3年1153年)、忠盛死後平氏一門棟梁となる。

※この「伊勢平氏の嫡男」の解説は、「平清盛」の解説の一部です。
「伊勢平氏の嫡男」を含む「平清盛」の記事については、「平清盛」の概要を参照ください。

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