諸勢力との戦い
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「越中公方」および「比叡山焼き討ち (1499年)」も参照 政変後、越中国へ亡命し、亡命政権(越中公方)を樹立していた足利義稙(義材)は、明応8年(1499年)に北陸の兵を率いて近江にまで侵攻し、比叡山延暦寺を味方に付ける。こうした延暦寺の行動を素早く察知した政元は早速行動に移った。赤沢朝経と波々伯部宗量に命じて7月11日の早朝に延暦寺を攻撃、大規模な焼き討ちを行わせたのである。この攻撃で根本中堂・大講堂・常行堂・法華堂・延命院・四王院・経蔵・鐘楼などの山上の主要伽藍は全焼した。勢いに乗った朝経は続いて9月には河内で挙兵した政長の子・畠山尚順を撃ち破り、尚順が大和国に逃げ込んだ為、12月にはそのままの勢いで大和国に攻め込んだ。そして筒井順賢・十市遠治ら尚順に与した国人衆を追討し、喜光寺・法華寺・西大寺・額安寺などを焼き討ちして大和北部を占領した。この朝経の一連の働きによって細川の版図は大幅に拡大することになった。また政元は周辺国の国人の細川被官化も推し進め、実質的な細川領国化による支配勢力強化を図った。 何かと政元と将軍義澄は政治面で対立することも多々あったが、文亀2年(1502年)8月4日、突如として義澄が金龍寺に引き籠るという事件が発生した。そして、義澄を説得しに行ったところ、御所に戻る交換条件として出された五つの条件のうちに前将軍義材の弟である実相院義忠を処刑せよ、というものがあり、翌5日に政元は義澄を見舞いに来た義忠をとらえて殺害した。これにより、義澄は政元によって自身が将軍を解任されて追放され、代わりに義忠が新たな将軍になるという可能性がなくなった為に大いに安堵する一方、政元は義忠の殺害によって次期将軍候補を失い、かつ前将軍義材派からは完全に敵視される状況となった。義澄を廃して新たな将軍を立てることも義材派と和解することも出来なくなった政元は、その政治的選択肢を大幅に狭めることとなった。 政元の気分屋的な傾向、そして実子が無かったことは京兆家の家督相続問題を直撃した。同年9月、摂関家の九条家から家督相続を条件に養子として迎えていた聡明丸(のちの澄之)を正式に嫡子と定め丹波守護職を与えるも、翌文亀3年(1503年)5月、細川一門の阿波守護家(讃州家)から六郎(改め澄元)を養子として迎えて家督相続を約束したため、政元は聡明丸を廃嫡する(これより間もなく聡明丸も元服して澄之と名乗る)。結果、澄之・澄元両派の対立が先鋭化するに至る。また、野州家からも高国を養子として迎えていたが、後にこれがさらなる混乱へとつながることになる。なお高国については養子となった時期が不明であり、実は養子でなく政元死後に澄元との対立のなか自分も養子になったと言い出したという説や最初から実家の野州家を継ぐことを前提とする養子縁組であったとする説(高国の実父の細川政春には他に男子がいなかった)もある。 永正元年(1504年)9月、内衆の摂津守護代・薬師寺元一が謀反を起こすが、これを鎮圧。永正3年(1506年)7月に河内の畠山義英(義豊の子)と畠山尚順を討伐し、赤沢朝経を大和国へ再び派遣、侵攻させる。永正4年(1507年)には紀伊国、さらに若狭の武田元信を助けるために丹後の一色義有の城に養子細川澄之・細川澄元を侵攻させるなど、細川氏の勢力の拡大を図った。こうして、政元は細川京兆家の全盛期を築き上げる。
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