諸勢力との戦いとは? わかりやすく解説

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諸勢力との戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 04:20 UTC 版)

細川政元」の記事における「諸勢力との戦い」の解説

越中公方」および「比叡山焼き討ち (1499年)」も参照 政変後、越中国亡命し亡命政権越中公方)を樹立していた足利義稙(義材)は、明応8年1499年)に北陸の兵を率いて近江にまで侵攻し比叡山延暦寺味方に付ける。こうした延暦寺行動素早く察知した政元は早速行動移った赤沢朝経波々伯部宗量命じて7月11日早朝延暦寺攻撃大規模な焼き討ちを行わせたのである。この攻撃根本中堂大講堂常行堂法華堂延命院四王院経蔵鐘楼などの山上の主要伽藍全焼した勢い乗った朝経は続いて9月には河内挙兵した政長の子・畠山尚順撃ち破り尚順大和国逃げ込んだ為、12月にはそのまま勢いで大和国攻め込んだ。そして筒井順賢十市遠治尚順与した国人衆追討し、喜光寺法華寺西大寺額安寺などを焼き討ちして大和北部占領した。この朝経の一連の働きによって細川版図大幅に拡大することになった。また政元は周辺国国人細川被官化も推し進め実質的な細川領国化による支配勢力強化図った何かと政元と将軍義澄は政治面対立することも多々あったが、文亀2年1502年8月4日突如として義澄が金龍寺引き籠るという事件が発生した。そして、義澄を説得し行ったところ、御所に戻る交換条件として出され五つ条件のうちに前将軍義材の弟である実相院義忠処刑せよ、というものがあり、翌5日に政元は義澄を見舞いに来た義忠とらえて殺害した。これにより、義澄は政元によって自身将軍解任され追放され代わりに義忠新たな将軍になるという可能性なくなった為に大い安堵する一方、政元は義忠殺害によって次期将軍候補失い、かつ前将軍義材派からは完全に敵視される状況となった。義澄を廃して新たな将軍立てることも義材派と和解することも出来なくなった政元は、その政治的選択肢を大幅に狭めることとなった。 政元の気分屋的な傾向、そして実子無かったことは京兆家家督相続問題直撃した同年9月摂関家九条家から家督相続条件養子として迎えていた聡明丸(のちの澄之)を正式に嫡子定め丹波守護職与えるも、翌文亀3年1503年5月細川一門の阿波守護家讃州家)から六郎改め澄元)を養子として迎えて家督相続約束したため、政元は聡明丸を廃嫡する(これより間もなく聡明丸も元服して澄之と名乗る)。結果、澄之・澄元両派の対立先鋭化するに至る。また、野州家からも高国養子として迎えていたが、後にこれがさらなる混乱へとつながることになる。なお高国については養子となった時期不明であり、実は養子でなく政元死後に澄元との対立のなか自分養子になったと言い出したという説や最初から実家野州家を継ぐことを前提とする養子縁組であったとする説(高国実父細川政春には他に男子がいなかった)もある。 永正元年1504年9月内衆摂津守護代薬師寺元一謀反起こすが、これを鎮圧永正3年1506年7月河内畠山義英(義豊の子)と畠山尚順討伐し、赤沢朝経大和国へ再び派遣侵攻させる。永正4年1507年)には紀伊国、さらに若狭武田元信助けるために丹後一色義有の城に養子細川澄之細川澄元侵攻させるなど、細川氏勢力の拡大図った。こうして、政元は細川京兆家全盛期築き上げる

※この「諸勢力との戦い」の解説は、「細川政元」の解説の一部です。
「諸勢力との戦い」を含む「細川政元」の記事については、「細川政元」の概要を参照ください。

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