カーナティック戦争において
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/01/26 04:09 UTC 版)
「プラタープ・シング (タンジャーヴール・マラーター王)」の記事における「カーナティック戦争において」の解説
1748年以降、カルナータカ地方政権とニザーム王国の継承問題により、第二次カーナティック戦争が勃発したが、プラタープ・シングはイギリス側のムハンマド・アリー・ハーンとナーシル・ジャングに味方した。 1751年6月12日、プラタープ・シングはイギリスの依頼により、タンジャーヴールに逃げていたチャンダー・サーヒブを処刑した。 しかし、その処刑後にムハンマド・アリー・ハーンとマイソール王国の間でティルチラーパッリの支配をめぐり争われることとなり、プラタープ・シングは前者に味方し、1755年4月までその周辺で争いが続いた。 1758年、第三次カーナティック戦争が勃発すると、フランスがタンジャーヴールに向けて進軍したため、プラタープ・シングはイギリスに味方し、イギリスの小隊とともにフランス軍に散発的な攻撃を行った。
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