カーナティック戦争における活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/14 06:15 UTC 版)
「ハイダル・アリー」の記事における「カーナティック戦争における活躍」の解説
ハイダル・アリーは王国の軍隊に入隊したのち、その軍事的才能をいかんなく発揮し、たちまちマイソール王国の将軍になった。彼は訪れる機会を巧みに利用できる人物でもあった。 1744年7月にカルナータカ太守サアーダトゥッラー・ハーン2世が殺されると、ニザーム王国のカマルッディーン・ハーン(アーサフ・ジャー)によって、ワッラー・ジャー家のアンワールッディーン・ハーンが新太守に任命された。 1748年、デカンのニザーム王国では君主アーサフ・ジャーが死亡し、息子のナーシル・ジャングが王位を継承したが、彼は甥のムザッファル・ジャングと争わなければならなかった。 1749年8月3日、フランス、チャンダー・サーヒブとムザッファル・ジャングの連合軍は、アンワールッディーン・ハーンをアンブールで破り殺害し(アンブールの戦い)、第二次カーナティック戦争が勃発した。 マイソール王国はナーシル・ジャングとムハンマド・アリー・ハーンの支援を決め、ハイダル・アリーを指揮官にカルナータカ地方政権の領土へと遠征した。この際、同年にハイダル・アリーはムザッファル・ジャングの兵が籠るデーヴァナハッリ城を包囲し、これを落として自身の所領とした。 1752年のチャンダー・サーヒブ殺害後、マイソール王国はムハンマド・アリー・ハーンに要求したティルチラーパッリの割譲要求を断られたことで、途中でフランスと同盟した。 両国は戦争終了後もティルチラーパッリ周辺で争ったが、1755年4月にマイソール王国の首都シュリーランガパトナがマラーター王国軍に包囲されたため、ティルチラーパッリを諦めて撤退した。
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