太守位の強奪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/06/10 09:15 UTC 版)
「アリーヴァルディー・ハーン」の記事における「太守位の強奪」の解説
1739年8月26日、シュジャー・ウッディーン・ムハンマド・ハーンが死ぬと、その息子サルファラーズ・ハーンが新たな太守となった。だが、アリーヴァルディー・ハーンは太守位を狙うようになり、1740年3月に反旗を翻した。 同年4月26日、アリーヴァルディー・ハーンとサルファラーズ・ハーンの両軍はベンガル地方の小村ギリヤーで激突したが、サルファラーズ・ハーンは武将アーラム・チャンド裏切られて敗れ、そのまま戦死した(ギリヤーの戦い)。これにより、彼はベンガル太守位の簒奪に成功し、ナーシリー朝に代わってアフシャール朝が成立した。 その後、アリー・ヴァルディー・ハーンは、ムガル帝国の皇帝ムハンマド・シャーにより、新たなベンガル太守に任命された。
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