太守位就任まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/02/08 21:17 UTC 版)
「サフダル・ジャング」の記事における「太守位就任まで」の解説
1708年頃、ミールザー・ムキーム・ハーンの息子として、イランのホラーサーン地方、ニーシャープールに生まれた。 同年に叔父のサアーダト・アリー・ハーンはイランからインドに移住し、ムガル帝国の貴族となっていたが、1723年にアブル・マンスール・ハーンもまたインドへと移住し、帝国に仕えるところとなった。この当時、イランのサファヴィー朝は極めて政情が不安定であり、ムガル帝国のほうがまだ安定していた。 1724年、アワド太守となっていたサアーダト・アリー・ハーンが任地で独立すると、アブル・マンスール・ハーンはアワドの副太守に任命された。 1739年3月19日、叔父であるアワド太守サアーダト・アリー・ハーンがナーディル・シャーによってデリーに監禁されたまま死亡し、息子なくして死亡したため、甥であるアブル・マンスール・ハーンが太守位を継承した。その際、彼はナーディル・シャーに対して、2000万ルピーの金を支払わなければならなかった。 とはいえ、アブル・マンスール・ハーンの太守位世襲に関しては帝国の皇帝ムハンマド・シャーにも認められ、「サフダル・ジャング(戦争の虎)」の称号も賜り、これ以降はこの称号で呼ばれるようになった。
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