太宰と小山初代との水上行き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:07 UTC 版)
「太宰治と自殺」の記事における「太宰と小山初代との水上行き」の解説
太宰は小山初代とともに水上近くの谷川温泉へと向かった。太宰はこの谷川温泉行きに関して、「姥捨」を書いている。「姥捨」では、不貞の責任を死んでお詫びしたいと主張する妻、かず枝(小山初代がモデル)に対し、妻を一人で死なせられないと、夫の嘉七(太宰がモデル)は心中を提案した。死に場所としてともに谷川温泉へ向かい、温泉宿で一休みした後、夜間宿を出て雪解けの斜面で二人して睡眠薬を服用し、意識を失った後に体が滑り落ちて首に巻いた帯が締まる形で心中を図った。結局心中は未遂に終わり、生き残った二人は別々に東京へ戻ったと書かれている。 「姥捨」に書かれた小山初代との心中未遂は太宰の自殺企図の一つとされている。しかしその内容には多くの疑問が出されている。まず睡眠薬常習歴のある太宰が、死ぬことを目的とした睡眠薬大量服薬の量を間違えるとは考えにくいこと。続いて睡眠薬で気を失った後に首が締まるように帯を巻いたというやり方は、本当に死ぬために首に帯を巻いたのか疑問があること。そして3月下旬の谷川温泉付近は夜間、氷点下まで気温が下がるのが常であり、睡眠薬を服薬して眠ってしまった場合、凍死すると考えられることである。その他にも谷川温泉へ向かう前に初代は身辺整理を行った形跡が全くないことも疑問点として挙げられている。 これらのことからこの水上での心中未遂はそもそもそのような事実が無かったとの説、太宰は妻、初代との離婚を企てるために偽装心中を図ったとの説、少なくともこの心中未遂事件時には太宰は死ぬつもりが全くなかったことは間違いないとの説が唱えられている。 信憑性に疑問が出されている水上での太宰の心中未遂であるが、同居後に積み重なった夫婦間の不信感の中で、小山初代と別れようと決意した太宰は、心中が失敗した以上、一緒に生活する理由も消滅したと主張するために起こした偽装心中であるとの説。心中を図ったことで世間体が立ち、死ぬ気で心中をしようと決意した以上、生き残った以上別れるしかないとの太宰なりの離婚の理由付けのためであったとの説。山奥の碇ヶ関温泉で結婚式を挙げた太宰夫婦であったが、やはり山奥の谷川温泉で別れるという儀式を行うために太宰が仕組んだことであり、太宰にとっては生まれ変わり、再生するための儀式であったとの説が唱えられている。 いずれにしてもそのような太宰の思惑は、小山初代にとって全くあずかり知らぬことであった。初代は何が何だかわからない中、谷川温泉へ向かい、やはりよくわからないうちに一人で東京へ戻り、太宰との離婚に至ったというのが実情であった。東京に戻った後、別居した太宰と小山初代であったが、離婚に関する話し合いが持たれ、1937年6月に離婚が成立して故郷の青森へと戻っていった。
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