高句麗説支持者
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白鳥庫吉 白鳥庫吉は、昭和8年10月の講演「渤海国について」において、「当時高句麗の遺衆が靺鞨族と通謀し、朝陽から東に走って国を建てた。元来高句麗は久しく支那文化を容れて来ている。靺鞨はこれに反して野蛮人といってよい。併し武勇である。そこで高句麗の遺臣は靺鞨族を利用して之と結んでその国の興復を計り、それが成功した。その中心人物が大祚栄で、旧唐書のいふ通り高句麗人であらう。新唐書に見える舎利乞乞仲象は乞四比羽と同じく靺鞨の酋長と思はれる」と述べており、また「唐の徳宗の貞元年間に出来た『梵語雑名』に、高麗と書いて悉曇文字でムクリ(Mokuri)と音を出し、漢字畝倶梨と当てている。従来これは高句麗とのみ考へていたため、どうしても分からなかったが、これは高句麗の故地にそのまま拠った渤海のことを指せるもので、渤海は靺鞨即ち勿吉の後裔であるからである。この勿吉または靺鞨が訛って発音され、漠北の民族を通って、『梵語雑名』の編者に聞えたときに、 Mokuriとなっていたものであらう。それは渤海の王室即ち治者階級は、大祚栄の率い来れる高句麗人の一味であり、被治者たる庶民は、勿吉の後裔たる靺鞨人であったからである。支那の方に於いては、公式に国家としては、渤海と呼んでいたであらうが、普通の人は常に高(句)麗と呼んでいたことであらう。何となれば渤海国は高句麗の故地に、高句麗人の大祚栄が建てた国であるからである」と述べている。 白鳥庫吉の高句麗説の根拠は以下である。 日本へ来朝した使者の多くは、漢名を有し、満州人名を有する者が少ない。 唐貞元年間に作られた『梵語雑名』には、高句麗をMokuriとしているが、これは渤海のことである。 渤海王と日本との間で往復した国書に渤海王を「高麗国王」と記したものがある。 対して小川裕人は以下のように反論している。 渤海には高句麗人がある程度存在したのは確かであるから、それらが対外交渉の時に活躍したと見ることもでき、『松漠紀聞』に「其王旧以大為姓,右姓曰,高・張・楊・賓・烏・李、不過数種,部曲・奴婢無姓者,皆従其主」とあり、渤海貴族に漢名がいたことを伝えており、阿骨打が渤海人懐柔のために用いたスローガンは「女直渤海本同一家」(『金史』巻二)であり、それは渤海人懐柔に過ぎなかったかもしれないが、「そのために『女直渤海本同一家』という語を必要としたということは、当時でも女直人と渤海人は懸隔のある種族ではなく、言語的にも外観的にも同一視できる程度のものであり、このことから渤海人を女真系種族から区別すべき理由はな」く、さらに遼では拂涅靺鞨の後身の烏惹の酋長が烏昭度・烏昭慶という烏姓を称したことが有るように、また金初期に生女直人までが競って漢名を称したこともあり、靺鞨人が高句麗人や漢人に倣い、漢名を称したこともあり得、渤海人が漢名を称したとしても高句麗の遺臣と考える必要はない。 『梵語雑名』に高句麗と書いてMokuriと読むことを、Mokuriとはmot-kit(勿吉)の最後のtがrに変化したものであるとして、渤海(=勿吉)が高句麗の根拠としたが、岩佐精一郎が突厥碑文にあるBokliとテオフィラクトゥスの突厥人から得た所伝にあるmoukriは共に高句麗を指していると指摘しており、高句麗をBokli或いはmoukriとしたのは突厥碑文によると渤海出現以前であり、MokuriはBokli・moukriと同語と考えられるからmot-kit(勿吉)の転音ではなく、moはBoと同じく貊、kriはkliと同じく高句麗の「句麗」と充て、貊人の句麗=貊句麗と解釈するのが妥当。 渤海の第4回目の遣使における「高麗国王」は前回の遣使の際の先例と違うことを諭した詰問により、日本が渤海を高句麗の後継と信じているのを知って、調子に合わせたに過ぎない。 赤羽目匡由は、「渤海王が高句麗を継承した国の王である事実を、『高麗国王』自称から読み取るのは、白鳥氏が王族及び支配階級が高句麗人であった事実を読み取るのと同様に、決め手に欠く。政治的意図で『高麗国王』を自称したとみることも十分に可能だからである」と指摘している。 また白鳥庫吉は、乞乞仲象を靺鞨とみている。すなわち乞乞仲象は靺鞨、大祚栄は高句麗人であり、乞乞仲象と大祚栄は父子関係ではないという立場であるが、研究が進んだ結果、乞乞仲象と大祚栄は父子関係ではないという主張は、現在では支持されていない。 三上次男 三上次男は、戦後間もない頃には「純乎たる満州王朝」「渤海の王族大氏の出自には二説があり、池内(池内宏)博士は靺鞨族とせられ、白鳥(白鳥庫吉)博士は高句麗人とせられた。鳥山(鳥山喜一)教授は両博士の説の長所をとられ、大氏は純粋の高句麗人でないにしても、恐らく父祖以来高句麗に帰附してその教養の中に生長した靺鞨族の出身者でなからうかと推測されている。姑く鳥山教授の説に賛したい」としていたが、瓦や仏像等の考古の分析から、次第に渤海と高句麗との共通性を主張するようになり、727年に日本に使者を送った大武芸の国書に「武芸は忝いことには多くの国をつかさどり、また身にあまることですが諸藩をすべました。そうして高句麗の旧土を復興し、夫余の遺俗のある国を建てました」とあることと、759年の大欽茂の使のたずさえた国書に「高麗王大欽茂」とあることを根拠にして、「渤海国の建国に至るまでの歴史的経緯や建国者の大祚栄がが高句麗人と考えられていたこと」「この文辞のなかには、明瞭に渤海は高句麗の後継国であるという意がふくまれている」「初期の渤海国王が、建国の目的を高句麗の復興にあるようにいい、あるいは渤海国王みずからが『高麗王』を称したのは、決してたんなるわが国に対する外交上の措置にとどまるものではなく、高句麗の後継者としての現実的な意識にもとづいてのこと」「当時のわが国が、渤海の使者を『高麗使』とよび(そのころ、渤海国という呼び名が通用していたにもかかわらず)、あるいは七六一年渤海国に遣された使者を『遣高麗使』と称したのは、わが国でも高句麗の継承国としての渤海の地位を認めていたからであろう」「渤海国の王族が高句麗の後継者としての意識を持っていたことは、前節に述べたところによって明らかになったであろう」「諸鎮の設けられた地方は渤海人と民族を同じうする女真人の住地であった」と述べている。 また三上次男は論文「金室完顔氏の始祖説話について」において、永年に亘って強大な勢力を振った高句麗の名は、民族の誇りとして「以後の満洲諸族の脳裏に深く刻印され、高句麗は中世満州諸王朝の祖朝とも云ふべき地位を獲得したのである。この国の滅亡後、その故土に国を建てた王朝が何れも高句麗の後を称し、その後国なる事を標榜したのは明かにこれを物語る」とし、渤海の場合「復高麗之旧居,有扶余之遺俗。」、および渤海王が日本に対して「高麗国王」と自称してくることなどを提示する。そして、金室完顔氏の始祖説話に「高麗」とある点に関連して、いわゆる満州あるいは朝鮮方面における「国家建設者は何等かの形に於て高句麗と関係を結ぶことを要請される」と述べている。これに対して石井正敏は、「傾聴すべき見解と思うが、ただ渤海王が日本に対して『高麗国王』と自称していることを以て、直ちに継承国意識を鮮明に示すものとする点には疑問があり、これについては別に詳述した」と評している。 松井等 松井等(國學院大學)は、「渤海の始祖大祚栄は高句麗人なりき」と述べているが、理由や根拠は触れていない。 上田雄 上田雄(元高校教諭、阪急学園・池田文庫学芸員)は、共同研究者の孫栄健の「大祚栄の出自について」の見解である「従来は靺鞨を一つの民族的な呼称として捉えていたが、これは民族名というよりも、中国から見た、その東北部一帯に居住する者全体を呼ぶ呼称であって、実際にはいくつかの民族に分かれており、だからこそ、その居住地や特性を冠して、黒水靺鞨とか粟末靺鞨とかいう名を与えていたのである。そして同じ靺鞨という名で呼ばれている部族の中には大きく分けて狩猟民族系と農業民族系とがあり、前者はツングース系の狩猟民族(例・黒水靺鞨)、後者は夫余・高句麗系の農耕民族で、これが粟末靺鞨と呼ばれた存在であり、渤海の支配者層を形成していた」「靺鞨人というのは、中国から見て東北方の地域に割拠する非常に廣い範囲の住民を指す総称で、その中にはいろいろな民族が包括されているので、靺鞨族という特定の民族は存在しない。そして大祚栄の出自とされる粟末靺鞨は高句麗を構成していた同族である昔の夫余人であるから、大祚栄は高句麗別種の粟末靺鞨人、すなわち夫余系の朝鮮族である」という考えを紹介して、大祚栄は高句麗別種の粟末靺鞨人、夫余系の朝鮮族であるということが理解できるのではないか、渤海王は夫余系高句麗人(高麗別種)の家系だったのである、と述べており、この地域に高句麗系民族による国家である渤海が成立したことにより、支配者層は夫余・高句麗系がほぼ独占したが、「版図内には支配者層の高句麗系民族に数倍するツングース系の狩猟民族の、いわゆる靺鞨族が存在したため、高句麗族が靺鞨族を支配して建てた国である、と見られたのはもっともなこと」であり、渤海の民族構成は「夫余・高句麗系の農業系民族と、ツングース系の狩猟系民族とに大別され、人口的には後者の方が多かったと推定されるのである」と述べている。
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