『旧唐書』渤海靺鞨伝「高麗別種」論争
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「渤海 (国)」の記事における「『旧唐書』渤海靺鞨伝「高麗別種」論争」の解説
『旧唐書』渤海靺鞨伝は「高麗別種」としているが、『新唐書』渤海伝は「大氏は、粟末靺鞨の高句麗に属する者」となっており、基本史料から見解が異なり、『新唐書』「渤海、本粟末靺鞨附高麗者、姓大氏。高麗滅、率衆保挹婁之東牟山、地直營州東二千里、南比新羅、以泥河爲境、東窮海、西契丹。築城郭以居、高麗逋殘稍歸之」記事は朴時亨を以ってして「『渤海は本来粟末靺鞨人である。そのうち、かつて高句麗に服属していた姓大氏なる者が、高句麗滅亡後靺鞨の衆を率いて挹婁の東牟山に拠点を置き国を建てたものである。その後、靺鞨人とは異なる高句麗遺民が次第に帰属するようになった』と読みとる以外ないくだり」であるのに対して、『旧唐書』「高麗別種」表現は曖昧であることから、「高麗別種」とは何かをめぐって論争となっている。 大祚栄が靺鞨人なのか、或いは高句麗人なのかという議論は、『新唐書』の「渤海、本粟末靺鞨附高麗者、姓大氏」という記事と、『旧唐書』の「渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種也」という記事の解釈の相違による。渤海の建国の記事を伝える『旧唐書』と『新唐書』のうち、どちらの史料を重視して、大祚栄を高句麗系とみるか靺鞨系とみるかに分かれており、韓国と北朝鮮の学界は『旧唐書』の史料的価値を重視して「大祚栄は高句麗系」と主張しており、中国の学界は『新唐書』の記録を重視して「大祚栄は靺鞨人であり、渤海の主体民族も靺鞨系」と主張している。 韓国・北朝鮮の研究者 高句麗研究会(朝鮮語版)会長の徐吉洙(朝鮮語版)(朝鮮語: 서길수、西京大学)や朴時亨などの韓国・北朝鮮の研究者は『旧唐書』・『新唐書』にあらわれる「別種」記事を探し出し、「別種」は「どこから出た支流」という意味で使われた用語であると主張している。 「百濟國 本亦夫餘之別種(百済国は本来、夫餘の別種である)」(『旧唐書』列伝一四九上、東夷・百済国条) 「鐵勒 本匈奴別種(鉄勒は本来、匈奴の別種である)」(『旧唐書』列伝一四九下、北狄・鉄勒条) 「高麗者、出自夫餘之別種也(高句麗は、夫餘から出た別種である)」(『旧唐書』列伝一四九上、東夷・高麗条) 「奚國、蓋匈奴之別種(奚国は大体、匈奴の別種である)」(『旧唐書』列伝一四九下 北狄・奚条) 「日本国者、倭国之別種也(日本国は大体、倭国の別種である)」(『旧唐書』列伝一四九上、東夷・日本国条) 「室韋、契丹別種(室韋は契丹の別種である)」(『新唐書』列伝一四四上、北狄・室韋条) 「高麗、本夫餘之別種也(高句麗は本来夫餘の別種である)」(『新唐書』列伝一四五、東夷・高麗条) 「百済、夫餘別種也(百済は夫餘の別種である)」(『新唐書』列伝一四五、東夷・百済条) 「高麗、本夫餘之別種也(高句麗は本来夫餘の別種である)」(『新唐書』列伝一四五、東夷・高麗条) 高句麗研究会(朝鮮語版)会長の徐吉洙(朝鮮語版)(朝鮮語: 서길수、西京大学)は以下の主張をしている。 日本や中国の学者は高句麗の別種とは、「高句麗種族ではない、他の種族」という意味であると考え、韓国・北朝鮮の学者は「高句麗から出た支流」という 意味に解釈するのである。(中略)別種、別類、種などはいずれも「どこから出た支流」という根源を明らかにするために使われた類似語であるということがわかる。 朴時亨は以下の主張をしている。 『旧唐書』渤海伝の篇名は「渤海靺鞨」になってはいるが、その内容自体は渤海国の創建者がほかならぬ高句麗人であることを明示している。それはまず、「渤海靺鞨の大祚栄は、もともと高句麗の別種(渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種也。)」であると明記した。しかし、ここでいわゆる「別種」とは、いわば動植物にある種があり、それに近い亜種あるいは別種があるように、高句麗人とはやや異なる何らかの別種がある、ということを意味するのではない。同じ『旧唐書』の他の東夷列伝をみれば、「高句麗は夫余から出た別種」、「百済は本来同じ夫余の別種」、「鉄勒は本来匈奴の別種」、「室韋は契丹の別種」、「霫は匈奴の別種」等等に記録されていることからして、このいわゆる別種は、今日歴史学が証明しているように、だいたい原種族と同一種族であって、それ以外の何らかの変種ではない。高句麗はまさに夫余族であって、その他の何らかの変種ではない。大祚栄の場合もほかならぬ高句麗人なのである。 — 朴時亨、渤海史研究のために 北朝鮮の学界は、「別種という言葉は血統的根源は同じだが、文化と暮らす地域が少し異なる同族を指す」と定義している。 宋基豪(朝鮮語: 송기호、ソウル大学)は、『旧唐書』「高麗別種」とは、『新唐書』「本粟末靺鞨附高麗者(もとの粟末靺鞨で、高麗に付属していた者)」のことであると解釈しており、いくつかの情況から大祚栄は靺鞨人であるが、高句麗に服属していたことから一定の部分高句麗化され、乞乞仲象を経てさらに加速されて靺鞨系高句麗人となったと主張した。 韓国の『韓国民族文化大百科事典』は、『旧唐書』には「渤海靺鞨大祚榮者 本高麗別種也」とあり、その解釈について大祚栄は高句麗人あるいは靺鞨人なのかは議論が絶えないが、大祚栄は純粋な高句麗人でもなく、純粋な靺鞨人でもなく、『旧唐書』に「高麗別種」とあるのはこのためであり、大祚栄は粟末靺鞨出身で、かつて高句麗に亡命していたものとみられると述べている。 『旧唐書』に登場する「高麗別種」の語に留意して、盧泰敦(朝鮮語版)(朝鮮語: 노태돈、ソウル大学)は、大祚栄を「高句麗化した粟末靺鞨人」と解釈しており、この解釈に従うと『旧唐書』は「渤海靺鞨の大祚栄は高句麗化した粟末靺鞨人」という解釈になる。 韓国の高校歴史教科書は、大祚栄の出自を高句麗武将とだけ紹介し、『新唐書』の渤海記事には言及せず、『旧唐書』の渤海記録だけを提示して「渤海が私たちの民族の国であることを証明できる根拠を史料を介して調べてみよう」と記述しており、李孝珩(朝鮮語: 이효형、釜山大学)は、「渤海の帰属問題以前に、歴史認識の公平性の問題を引き起こす」と批判している。 国史編纂委員会は、『旧唐書』は「渤海靺鞨の大祚栄は、もと高麗の別種である」とし、『新唐書』は「渤海は、もとの粟末靺鞨で、高麗に付属していた。姓は大氏である」とし、『旧唐書』は「高麗別種」という曖昧な表現で大祚栄の靺鞨的要素と高句麗的要素を同時に言及している一方、『新唐書』は大祚栄の出自を明確に粟末靺鞨としている。『三国遺事』は、朝鮮史書である『新羅古記』を引用して、大祚栄はもとの高句麗武将とし、『帝王韻紀(中国語版)』も大祚栄をもとの高句麗武将と述べており、『高麗史』及び『高麗史節要』は、渤海は粟末靺鞨としつつも「高句麗人大祚栄」と規定している。一方、崔致遠は『謝不許北国居上表』において、大祚栄は元の粟末靺鞨としており、『三国遺事』は、中国史書である『通典』を引用して「渤海は元の粟末靺鞨で、その酋長である大祚栄に至って国を建国した」としており、大祚栄を粟末靺鞨と規定しており、大祚栄の出自を説明する『旧唐書』「高麗別種」、『新唐書』「本粟末靺鞨附高麗者」、『新羅古記』「高麗旧将」を総合して大祚栄の出自を紐解くと、渤海を建国した粟末靺鞨は松花江一帯を居住地としており、早くから高句麗と隣接していた。靺鞨は軍事力が優れており、高句麗と周辺国家との戦争では靺鞨が高句麗と共同戦争を行っていることを史料で確認することができ、645年の唐の第一次高句麗出兵(英語版)において、唐太宗が捕虜となった高句麗人を解放する代わりに靺鞨人3300人を埋め殺し、654年には高句麗が靺鞨と連合して契丹を攻撃しており、655年には高句麗が百済と靺鞨が連合して新羅の北辺境に侵攻しており、左様に靺鞨は高句麗と連合して、積極的に参戦している。6世紀末に高句麗が粟末靺鞨地域に進出し、粟末靺鞨は高句麗に服属したが、大祚栄の先祖はこの時に高句麗に服属し、高句麗に移住したみられる。従って、『旧唐書』「高麗別種」とは、大祚栄の種族が「高句麗とは他の種族」であることを意味し、即ち、大祚栄の種族は「粟末靺鞨」であり、大祚栄の先祖が高句麗に移住し、靺鞨特有の軍事力を発揮して、高句麗の武将の地位に上り詰め、粟末靺鞨でありながら高句麗の武将として軍功をあげた。大祚栄は高句麗で生活していることから、ある程度高句麗化され、まさに『旧唐書』「高麗別種」とは、粟末靺鞨でありながら高句麗化された大祚栄を意味し、父の乞乞仲象が靺鞨名であることとは異なり、姓は大、名は祚栄という漢姓漢名であることを鑑みると、父の乞乞仲象よりもある程度高句麗化していることが伺われ、大祚栄は高句麗滅亡後、高句麗遺民の身分で営州に強制移住され、契丹が暴動の混乱に乗じて、他の高句麗遺民と靺鞨などを結集して営州を脱した。結局、『旧唐書』「高麗別種」、『新唐書』「本粟末靺鞨附高麗者」、『新羅古記』「高麗旧将」と多様に記録された大祚栄の出自は「大祚栄は粟末靺鞨でありながら、高句麗に移住し、高句麗化したもとの高句麗武将」という複合的アイデンティティをもつ大祚栄を説明していると結論付けている。 卞麟錫(朝鮮語: 변인석、英語: Pyun, In-seok、亜洲大学)は、「『旧唐書』と『新唐書』の見解を組み合わせて解釈することは避けねばならず、何故なら『旧唐書』と『新唐書』では異なる見解を示しているからである」として、朴時亨は「別種」を「亜種」と解釈しているが、「別種」とは生物でいう「亜種」という意味の「変種」ではなくて従属関係をあらわしており、従って「別種」とは「亜種」「変種」であるという主張には賛成できず、中国史書でみられる「別種」とは主体の支配階層ではなく、他系統という意味であり、高句麗が滅びると、その遺民と靺鞨や突厥は営州に移されていたが、大祚栄もこれらとともに雑居地である営州に移り、大祚栄が靺鞨に分投し、散乱した理由は定かではないが、大祚栄が靺鞨人とともに一団となった事実だけでも旧高句麗人と靺鞨人を中心とした連合体の指導者であることは間違いなく、複数の部族の混在的な性格をもつ連合体の実体を把握することができなかった中国史書が高句麗中心の連合体と誤って解釈したものが「別種」であり、編纂した史官が、中国史書の前代の民族系統の記録から機械的に踏襲して「別種」を使用したのであり、従って『旧唐書』を「渤海靺鞨大祚栄は、本来、高句麗別種である」というように「別種」を「変種」の意味で解いてはならず、『新唐書』巻二十二には、高句麗や百済について「扶餘別種」とあり、高句麗と百済の支配層は本来夫余から割れた種であることを鑑みて、渤海が多民族国家であることを主眼に置くと、大祚栄が高句麗人あるいは靺鞨人であるかは不明であるが、「高麗別種」とは渤海の支配層が高句麗系であることを指していると推測できると主張している。 朝鮮時代の許穆、李瀷、安鼎福(朝鮮語版)、柳得恭(朝鮮語版)などは、すでに『旧唐書』と『新唐書』を折衷的に解釈する傾向を示しており、『旧唐書』の「高麗別種」とは『新唐書』の「本粟末靺鞨」のことであるとしており、「高麗別種」=「粟末靺鞨人」としている。 靺鞨、本粟末靺鞨、高句麗別種、有野勃、三世孫乞乞仲象、與其徒渡遼河、保太白山東、仲象死、子祚榮嗣。 — 許穆、眉叟記言、巻三二・東事・靺鞨条 許眉叟、作渤海列傳、頗欠詳、渤海本粟末靺鞨、高句麗別種。 — 李瀷、星湖僿説、経史門・渤海 靺鞨大祚榮遁去、初契丹之亂、有乞乞仲象者、與高句麗別種、靺鞨粟末部落、乞四比羽及高句麗餘種、東走渡遼水。 — 安鼎福、東史鋼目、巻四下 震國公姓大氏、名乞乞仲像。粟末靺鞨人也。粟末靺鞨者、臣於高句麗者也。 — 柳得恭、渤海考、君考 朝鮮語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。발해고/군고/진국공 中国の研究者 朱国忱(黒竜江省文物考古研究所)、魏国忠(黒竜江省社会科学院歴史研究所)、韓東育(東北師範大学)、張博泉(吉林大学)、劉毅(遼寧大学)などの中国の研究者は、韓国・北朝鮮の研究者が主張する「高麗別種=高句麗人」という解釈は恣意的な史料解釈と批判している。 張碧波(中国辺疆史地研究センター(中国語版))は、「別種」とは古代の中国史家が、民族の源流・民族関係を記述するときに作成した特有の概念であり、「別種」とは「本種」とは異なるという意味であり、従って「高麗別種」とは渤海が高句麗王家から派生した政治勢力という意味ではなく、中華民族の形成過程では、民族文化の衝突・交流・融和の複雑なプロセスを経て、民族の遷移は絶えず行われ、民族と民族の分裂と統一、変化と帰付の状況は非常に複雑化し、『新唐書』はこの複雑なプロセスを認識して『旧唐書』の「高麗別種」という曖昧な表現を「渤海本粟末靺鞨附高麗者、姓大氏」と明確に記録したと主張した。 王成国(遼寧省社会科学院歴史研究所)は、「高麗別種」とは高句麗の別部という意味であり、乞乞仲象・大祚栄を首領とする粟末靺鞨はかつて高句麗の支配下にあり、粟末靺鞨が遼西の営州に移住する前、粟末靺鞨は高句麗に支配され、粟末靺鞨は高句麗の別働部隊として、長期間高句麗と一緒に生活し、共に戦争を戦ったので、『旧唐書』の編纂者は粟末靺鞨を高句麗の別種と史書に書いたと述べている。 姜守鵬(東北師範大学)は、中国の古代文献では「別種」とは、すでに決められた含意があると主張しており、 「別種」とは「別族」と同様の意味である「他種」という意味であり、「同種」の末裔・傍系は「分種」であって「別種」ではなく、「別種と別部は同じである。それぞれ互いに同じ政治共同体に属しているが、種族上ではそれぞれ互いに異なる部落」と述べており、この「別種」の理解に基づいて「渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種也」を解釈すると、渤海の建国者である大祚栄はかつて高句麗に隷属していた粟末靺鞨人となり、このため『旧唐書』は、大祚栄を「高麗別種」と呼んだと主張した。また、姜守鵬(東北師範大学)は、『旧唐書』は、渤海を「北狄伝」に収めて北狄の一員として扱っており、「高麗別種」とあるにもかかわらず、高句麗を収めた「東夷伝」には収めておらず、一方、高句麗は「東夷伝」に収めて東夷の一員として扱い、『旧唐書』編纂者は大祚栄が属する渤海を高句麗と明確に異民族と区別していることを指摘している。 魏国忠(黒竜江省社会科学院歴史研究所)と郝慶云(黒竜江省社会科学院歴史研究所)は、『旧唐書』の「渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種也」記事の「高麗別種」の解釈以前に、そもそも「渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種也」として大祚栄が靺鞨であることを宣言しており、実質的に『新唐書』と『旧唐書』は矛盾しておらず、『新唐書』の「粟末靺鞨附高麗者」とは『旧唐書』の「高麗別種」を指していると指摘している。 劉毅(遼寧大学)は、『新唐書』と『旧唐書』の編纂過程上、全体的に『新唐書』の方が『旧唐書』より優れており、仮に『旧唐書』の記事を「大祚栄は高句麗人」と仮定しても、『新唐書』の方が優れているため『新唐書』の記事が正しいと主張しており、『新唐書』は『旧唐書』の多くの問題点を修正している事実上の『旧唐書』改訂版であり、『新唐書』は『旧唐書』が参考していない新史料、なかでも渤海に滞在して渤海を直接見聞し、その民族、政治、経済、文化、社会風俗に関する正確な記録を残した張建章の『渤海国記』を参照しており、編纂者の主観的な判断に基づいた『旧唐書』よりもはるかに優れていると評価した。劉毅(遼寧大学)は、別種の意味について増村宏の「各史籍について別種の用語を検討すれば、(1)唐代史料に多用され、唐代史書に準じて旧唐書の多用が注意される。(2)別種の多用は唐代史書の一つの書法である。(3)別種は当該民族・国人の自言を表すものではなく、中国側(史書撰述者をふくむ)の判断である」という主張と、朱国忱と魏国忠の「別種と本種、或いは正胤とが違った二つの概念であり、その区別は明かな事であろう」という主張から、「『高麗の別種』という意味は、『高麗の本種』ではないという中国の史書撰述者の判断であったと分かる。『旧唐書』渤海伝の文を見ると、史書撰述者はまず『渤海靺鞨の大祚栄』と明記し、すなわち大祚栄の所属する民族は靺鞨であるとみられ、後の『高麗の別種』の用語は史書撰述者の劉昫などの判断であろう」が、読者の理解には差がある為間違った結論を出す疑いもあり、したがって「『旧唐書』の改正版である『新唐書』が、その渤海関連記事にはさらに大祚栄の所属する民族を、直接に『もと粟末靺鞨』と書き直している。これが事実に基づく定説であろう」と述べている。 王健群(吉林省文物考古研究所)は、中国史料に登場する「別種」とは「同種とは異なるが、隷属していた者」を指し、従って、『旧唐書』「高麗別種」とは「高句麗と同種とは異なるが、高句麗に隷属していた者」という意味であり、『旧唐書』は「大祚栄は高句麗と同種とは異なるが、高句麗に隷属していた者」としか解釈できず、それを『新唐書』は「もとの粟末靺鞨で、高麗に付属していた。姓は大氏である」と明確に説明しているだけであり、『旧唐書』巻百二十四には、高句麗人である李正己(中国語版)を「李正己、高麗人也。」と記載しており、大祚栄が高句麗人であるなら李正己(中国語版)同様に「高麗人」と直接書くはずであり、「高麗別種」などと曖昧に記載しないと指摘している。 劉振華(吉林省博物館(英語版))は、『旧唐書』「渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種也」は、大祚栄は高句麗にかつて服属していたが、その民族は靺鞨に属しており、高句麗人と同一の民族ではないことを意味していると指摘している。 馬一虹(中国社会科学院歴史研究所)は、「別種」とは「曖昧な意味」を含意した単語であり、中国の古代史家が歴史上の関係や連携が密接な関係にある各種族に対して、その複雑な関係性故に各種族を区別するために用いた慣習的な概念であると指摘した。即ち、居住あるいは活動区域が近いあるいは同じであり、習慣も近い二つの種族が入り乱れており、容易に見分けがつかない状況で採用された一種の曖昧な区別方式だとした。 韓東育(東北師範大学)は、韓国・北朝鮮の研究者が「別種」解釈において中国の論理に反して使用し「高麗別種」を「もと高句麗人」とみなす論法をとるなら「靺鞨別種」「渤海別種」をどう理解すべきだろうかと批判している(一然は『三国遺事』で、大祚栄を粟末靺鞨の酋長とのみ言及し、渤海を「靺鞨ノ別種」と結論付けている)。 立國於大伯山南、國號渤海。按上諸文、渤海乃靺鞨之別種。 — 三国遺事、巻一・靺鞨[一作勿吉]渤海 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。三國遺事/卷第一#樂浪國 女真者、渤海之別種也、契丹謂之虜真。 — 武経総要、前集巻二十二 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。武經總要/前集/卷二十二#奚、渤海、女真 女眞者渤海之別種也。 — 三朝北盟會編(中国語版)、巻三八・靖康元年條 『新唐書』渤海伝や新羅の崔致遠が作成し、新羅王(孝恭王)から唐皇帝へ宛てた国書『謝不許北国居上表』など大祚栄とその統治集団を「靺鞨人」と記した史料は存在するが、「高麗人」と記した史料は存在しない。 語法修辞的角度から見れば、「別種」という熟語の中で、「別」と「種」の間は並列関係でなく、従属関係であり、前の「別」の字は間違いなく後の「種」字の説明と限定であり、「別という意味」、「別個の」、「別の」という意味で解釈できるだけであり、「別種」の本来の意味は、元来同じ種類から分かれた「分種」ではなく、むしろ「別種」の種族と称されるものが、種族の源上の分類も同じではなく、「高麗別種」とは乞乞仲象・大祚栄父子とその首領たちの「族属」を指しており、したがって「国籍」・「国別」を意味せず、『旧唐書』「高麗別種」記事から導き出されるのは、乞乞仲象・大祚栄父子とその首領は、高句麗人や高句麗政権と密接な関係を有しているが、高句麗人ではない。 大祚栄一族が「高麗別種」であるというだけで、高句麗人と結論づけるのは、一方に偏り根拠に乏しく、高句麗説支持者が依拠した『旧唐書』「高麗別種」記事の前文には「渤海靺鞨の大祚栄」と明記されており、渤海を樹立した大祚栄は靺鞨人であるという前提で、初めてそれが「高麗別種」と明示され、『新唐書』北狄伝の「渤海は、本粟末靺鞨の高麗に付く者にして、姓は大氏」の記事とは根本的な違いはなく、『新唐書』及び『旧唐書』は両者とも大氏の所属する民族を靺鞨であると明確にしており、『新唐書』はそれが粟末靺鞨だということを指摘しているにすぎず、大氏の系統を「高麗に付く者」とする文言は、『旧唐書』「高麗別種」の概念に対して適切な説明を加えている。 『隋北蕃風俗記』記事によると、靺鞨諸族の中で、厥稽部・忽使来部など八部の兵数はわずか千人にすぎず、その中の多くは前後して高句麗の属民となるか、高句麗に帰服したのであって、唐が高句麗を滅ぼすと、一部の「高句麗に付く者」が高句麗遺民と共に唐によって遼西及び中原に移され、大氏はこの「高句麗に付く者」の中の有力な一族であり、高句麗に帰服した粟末靺鞨人は、かつて匈奴により征服され、匈奴の属部にされた鉄勒と同様であり、鉄勒が匈奴の「匈奴別種」とされたのと同様、靺鞨人は『旧唐書』によって「高麗別種」と記載され、『旧唐書』「高麗別種」と『新唐書』「高句麗に付く者」は同一概念であり、大氏を含む靺鞨諸部の「高句麗に付く者」が、高句麗に隷属していることを指し、「高麗別種」だから高句麗人であるという解釈にはならない。 『旧唐書』及び『新唐書』の渤海伝は、大祚栄政権樹立の経過を記述するにあたり、大祚栄が「高麗、靺鞨の衆を合わせ」、「祚栄は驍勇にして善く兵を用う。靺鞨の衆及び高麗の余燼は、稍稍(しだい)に、之に帰す」、「高麗の逋残(逃散した敗残兵)、稍く之に帰す」、「高麗、靺鞨の兵に因りて、(李)楷固(将軍)を拒む」と明言し、どれも靺鞨人を「高句麗に付く者」とみなしていた。 『新唐書』は『旧唐書』に遅れて編纂されていることから『旧唐書』に比して利用できる史料がより多く、唐の張建章の『渤海国記(中国語版)』のような第一級史料を包括しており、史料的・学術的価値は『旧唐書』よりも高い。したがって『新唐書』「渤海、本粟末靺鞨附高麗者、姓大氏。」の記事の方が信頼性が高い。渤海関連記事は『旧唐書』より『新唐書』の方が史料的・学術的価値が高いことは中国や北朝鮮や日本の研究者は認めており、劉毅は「『旧唐書』の唐代後半、とりわけ宣宗(八四六-八五九)以降に関しては史料不足から内容的に粗略で錯誤等も多いとされる。それ以上に、『旧唐書』は五代紛乱の最中に編纂したので、沢山の唐代史料が戦乱で散佚され、それを収録できなかった。そのため北宋から明代まで、ほぼ五百年間間にわたって史書として重視されなかった」「『新唐書』は、宋代新出の諸史料、及び筆記、小説、碑記、家譜、野史の類まで広く採用して、唐代後半に関する記事を補充し、『旧唐書』の後半疎略の弊を解消したこと、列伝を増した他、天文、暦志、地理、食貨、芸文志が詳細になる」「『旧唐書』は、『夷』、『狄』(中国の官修正史の異民族に対する卑称)の記事に関しては史料不足から内容的に疎略で錯誤も多いとされ、中でも日本に関する記事の『倭国』『日本国』両伝を分立することに、最も明らかであろう」「『旧唐書』が五代紛乱の最中に編纂されたので、沢山の唐代史料は戦乱で散佚し、それを収録できなかったが、一方、わずか四年間の編纂期間であり(『新唐書』の方が十七年間)、正史として、なお短かったためであろう」「増村宏氏は中国・日本の諸史料によって、『新唐書・日本伝の記述に当時の新史料であった日本僧奝然の日本年代記を参照している』と考証する。それを傍証として、異民族の関連記事については、『新唐書』が『旧唐書』に比べて史料的価値がより高く、正しいと考える」「『新唐書』は、古籍の中では当時の渤海の状況に関する第一級の専著であった張建章の『渤海記』によって、編纂されたとみられるのである」「要するに、多くの関連する内外の古文献からみれば、『新唐書』は良史として、その信憑性が高いであろうと認められる。それゆえ、『新唐書』の渤海人の出自についての判断は、事実に基づいたことである」「約言すれば、『旧唐書』と『新唐書』の編纂した経緯によって、また歴代の中国の歴史学者がそれを論議したことから見ると、『新唐書』が『旧唐書』の改正版で、前者の史料価値は後者よりも高いことが知られる。これによって、『新唐書』渤海伝の『渤海本粟末靺鞨、附高麗者、姓大氏』という渤海記事は全く正しいことだと考えられよう」と述べている。北朝鮮の朴時亨は、「周知のように、『新唐書』は『旧唐書』の欠陥を是正するために編纂されたものであるが、両者にはそれぞれ長所と短所があると一般に認められている。とくに『新唐書』渤海伝についていえば、それは『旧唐書』渤海伝では参照されなかったと思われる史料(『渤海国記(中国語版)』)を利用して、渤海の文物制度その他に関する事実を補充した」「世に出るや世の全文筆家から『旧唐書』を完全に圧倒したといわれた『新唐書』」と述べている。日本の和田清は、「新旧両唐書の史料的価値については、古来色々の批判があるが、少くとも渤海伝に関する限り、旧唐書の価値は新唐書のそれよりも遥に低いようである。旧唐書渤海伝の記事は誠によく冊府元亀の所伝と一致しているけれども、概して言えば、それは唐朝との交渉の一面に限り、その他の事は殆ど何物も伝えていない。之に反して新唐書渤海伝には、旧唐書にはなくて、新唐書にのみあるような記載が極めて多い。そうしてそれは大抵渤海国内の内情に関することのみである。例えば、渤海内部に行われた歴代国王の諡号や年号や、何王の時どの地方が経略されたとか、もしくは国内の行政区割・官制や地方の名産のこと等がこれである。これによって始めて我々は渤海の国情の大略を察知することが出来る」と述べている。日本の鳥山喜一は、「もと新唐書は旧唐書の欠漏謬誤の補正をするための編述であるから、新史料の採録のあったことは当然」「和田清博士は『渤海国地理考』において、この金毓黻氏の説に出発して、新旧両書の渤海伝の史料的価値の批判に触れ、『新唐書渤海伝の記事の旧唐書と違う部分は、殆ど全く張建章の渤海国記に拠ったものであって、しかも張建章は直接これを当時の見聞によって獲て来たのであるから、それは必ず渤海側の所伝と見るべく、中には渤海の記録をそのまま写したものもあること、後に説くが如くで、相当に尊重せられなければならぬ性質のものである』とさえいわれて、渤海国記によったであろうと思われる新唐書の記事を高く評価された」と述べている。日本の新妻利久は、「結局は新旧唐書の優劣の比較論に帰することであるが、新唐書の記事は史学研究の常道、否な学問研究の常道にも合致していて、充分に信用価値ありと認めらるべきであるということを、新唐書編纂の事情を研究することによって確認が可能…次に新唐書の良書たることを追究することにするが、この至難な問題については、幸に、二十二史箚記に新唐書の良史たることの趙翼の見解が述べられていて、贅言を要しないと思うから、それを載せて卑見に換えることにする。『宋仁宗以劉昫等所撰唐書卑弱淺陋。今翰林學士歐陽修。端明殿學士宋祁刊修。曾公亮提舉其事。十七年而成凡二百二十五卷。修撰紀志表。祁撰列傳故事。…祁奉詔修唐書十餘年。出入臥内嘗以稿。自隨爲列傳百五十卷祁傳。論者謂新書事增於前。文省於舊。…至宋時文治大興。殘編故冊次第出見。觀新唐書藝文志所載。唐代史事無慮數十百種。皆五代修唐書時。所未嘗見者。據以參考。自得精詳。…是刊修新書時。又得諸名手佽助。宜其稱良史也。』とあって、新唐書が旧唐書に比して如何に優れており、如何に精詳であったかが知られる。したがって、旧唐書に記されていないことが、新唐書に記されているのは当然で、旧唐書に記されていない乞乞仲象や、元義・華璵、及び彝震以後の諸王等が新唐書に記されているのは、その例証」と述べている。 高句麗説支持者が依拠した『旧唐書』さえも、渤海と大祚栄を記述するにあたり、これを「渤海靺鞨」と称し、そして渤海を「北狄伝」に収め、漢人からみて東北アジアに住む諸民族の卑称である北狄の一員として扱っており、「高麗別種」とあるにもかかわらず、高句麗を収めた「東夷伝」には収めておらず、渤海は「北狄」に収められ、高句麗は漢人からみてみて東アジアに住む諸民族の卑称である東夷として扱い、渤海と高句麗は異種族に属するとする認識があった。 渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種也。高麗既滅、祚榮率家屬徙居營州。〈渤海靺鞨の(建国者)大祚栄は、もと高(句)麗の別種である。高(句)麗が既に滅亡(六六八)してしまったので、(大)祚栄は一族を率いて営州(遼寧省朝陽市)へ移り住んだ。〉 — 旧唐書、渤海靺鞨伝 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。舊唐書/卷199下#渤海靺鞨 日本の研究者 石井正敏は、新羅王から唐皇帝に宛てた上表文に「渤海は高句麗領内に居住していた粟末靺鞨人によって建国された」と記されており、それを前提に1「高句麗ノ殘孽」、2「高麗ノ旧将」、3「惟フニ彼ノ句麗、今ノ渤海タリ」、4「昔ノ句麗ハ則チ是レ今ノ渤海ナリ」などの表現を理解すべきであり、「渤海はいわば『在高句麗靺鞨人』を中心に、高句麗滅亡後建設されたものであるから、これを『かつての高句麗人によって建設された』ということもできよう。したがって、例えば、両唐書が、あるいは『高麗ノ別種』のごとく、あるいは『本ト粟末靺鞨』のごとく、一見矛盾した表現をしているかにみえることも、上述のように考えれば、その疑問は氷解するであろう」と述べている。 「高句麗殘孽類聚、北依太白山下、國號爲渤海。」(『三国史記』巻四六・崔致遠伝) 「新羅古記云。高麗舊將柞榮。姓大氏。聚殘兵。立國於大伯山南。國號渤海。)」(『三国遺事』巻一・靺鞨渤海条) 「惟彼勾麗、今為渤海。」(『東文選』巻四七・新羅王与唐江西高大夫湘状) 「則知昔之勾麗、則是今之渤海。」(『東文選』巻四七・与礼部裴尚書瓚状) 日野開三郎は、『旧唐書』巻一九九渤海伝の劈頭に「渤海靺鞨大祚榮者。本高麗別種也。」とあり、大祚栄が「高麗別種」と記しているが、この「高麗別種」という「別種」の内容はこれだけでは判らないが、『新唐書』巻二一九渤海伝の劈頭には「渤海。本粟末靺鞨附高麗者。姓大氏。」とあり、大祚栄を粟末靺鞨の出身で高句麗に附していた者と説明しており、『旧唐書』にいう「高麗別種」とはこうした関係を表現したものであるが、「高麗別種」が単にこうした臣属関係を表しているだけならば、特に大祚栄を「高麗別種」とする必要はなく、「附高麗者」と特に断る必要もないが、特に「附高麗者」としているのは、「その附隷の関係が一般の者より格別親密であったために相違なく、さらに『高麗別種』と表現せられているのは、その親密な附隷関係を通して彼等が事実上高句麗人化していたため」であり、大祚栄はおそらく粟末靺鞨ではあったが、高句麗本土の遼東に入住し、そこですっかり高句麗化し、「『高麗別種』とは高句麗人化していた粟末靺鞨人を現した語と思われる」と述べている。 鳥山喜一は、『旧唐書』「渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種」と『新唐書』「渤海本粟末靺鞨」記事は「一見相違せるに似たれども、実は必しも然らざるものある也。思ふに旧唐書に『高麗別種也』と規定せるものと、新唐書が『本粟末靺鞨』と指したるものとは、其の対象を異にすることに注意せざる可らず、前者は渤海民族の種族を規定せるに非ずして、主権者たる大祚栄の高句麗の別種なることを云へるもの、而して新唐書は国民の所属を指示して粟末靺鞨なりとし、この句に次げる『附高麗者姓大氏』といへる説明にて、主権者と高句麗との関係を指示せる」もので『旧唐書』は「渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種」として「渤海靺鞨」としており、したがって『新唐書』が「粟末靺鞨と云へるにても、論なき所ならんと思惟せらる」と述べており、『新唐書』と『旧唐書』における大祚栄の出自については、表現に違いはあるがどちらも渤海と高句麗の因縁がふかいことを伝えており、『旧唐書』「渤海靺鞨大祚榮者、高麗別種也」と『新唐書』「渤海本粟末靺鞨、附高麗者姓大氏」のニュアンスを考えると、「これは相背反し、相矛盾するものではなく、いずれも渤海が靺鞨族の国であることをいい、旧唐書は大祚栄すくなくとも大氏という渤海の建設者を出した家系の説明に重点を置いたものであり、新唐書はむしろ渤海国の民族的組成面に力点をおき、支配者の家系はこれを従的に取扱ったもの」であり、『旧唐書』「高麗別種」表現から導かれる帰結は、大祚栄はもとより純粋な高句麗人ではなく、靺鞨人の出自であったが、「高句麗との関係-その版籍にあったのは、その父祖にも泝るもので、そういう環境に育った人物と想定させることと」なり、『旧唐書』が大祚栄を「高麗別種」とし、『新唐書』が大氏を「高麗に附せしもの」としたことは高句麗への服事関係が古くからあったとみるべきであり、『旧唐書』「高麗別種」は、「高麗に役隷し其の滅亡と共に唐に降りしものなるが故」であり、大祚栄は高句麗に服事していたと解釈するのは『旧唐書』を充足するだけでなく、『新唐書』「附高麗者姓大氏」とも矛盾なく解くことができる、と述べている。 和田清は、『旧唐書』渤海伝「渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種也」と『新唐書』渤海伝「渤海本粟末靺鞨附高麗者、姓大氏」は、「一見矛盾している」としつつも、渤海が高句麗の残党と共に唐の擾乱に乗じて建国したことは疑いなく、「旧唐書の編者がこれを『本高麗別種也』といったのは正しくこの意味であらう。しかし高麗の別種といってその同類とはいはなかった」「この時高麗の遺族は遼東の安東都護府の管下にあつて遼西の朝暘(営州)に居たのは寧ろ靺鞨の余類であった。そうして渤海の国祖はその遼西の朝暘から起こったのである。そうして見れば、新唐書に明白に『本粟末靺鞨附高麗者』とあるのがやはり正しいのではないか」「況して新唐書の所伝は渤海側自身の消息を伝へていると思はれるにおいてをやである。尤もこの場合には両唐書の所伝は必ずしも矛盾ではない。『本粟末靺鞨附高麗者』が即ち『本高麗別種也』と解釈出来るからである」と述べている。 浜田耕策は、「『旧唐書』伝は『渤海靺鞨大祚栄』と書き始め、大祚栄の所属を『渤海靺鞨』と」しており、「『冊府元亀』外臣部・継襲二では『渤海靺鞨』とあり、また『靺鞨渤海郡王大祚栄』(『冊府元亀』帝王部・来遠、外臣部・褒異、七一八年二月)とも記録され」、「『新唐書』伝も大祚栄を高句麗に付属した粟末靺鞨族の者とみており、両唐書ともに大祚栄の政治、文化的な所属を高句麗に付属した靺鞨族と記録」しており、「唐では大祚栄に率いられた渤海の勢力を靺鞨諸族のなかの一つの大種族とみていたことがわかる」と述べている。 河内春人は、高句麗が唐との戦争を繰り広げていた時に靺鞨の北部の衆が高句麗側についており、隋代以来の靺鞨に対する高句麗の軍事的規制が生きていたことを指摘した上で「さらには遺民の一部が突厥よりも近い契丹や営州に移動したと推測するにかたくない。なによりも『旧唐書』渤海伝には大祚栄を『高麗別種』とした上で『高麗既滅、祚栄率家属徒居営州』とあることからも明らかであろう」と述べている。 森部豊は、「営州付近に、高句麗の別種である大祚栄の集団がおり」、「高句麗滅亡時に、高句麗の『別種』である大祚栄の集団が営州近辺にいたこと明らかであり、その中に高句麗人が含まれていたことが示唆されるのである」と述べている。 新妻利久は、『旧唐書』渤海伝「渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種也。高麗既滅、祚榮率家屬徙居營州。萬歳通天年、契丹李盡忠反叛、祚榮與靺鞨乞四比羽各領亡命東奔、保阻以自固。盡忠既死、則天命右玉鈐衛大將軍李楷固率兵討其餘黨、先破斬乞四比羽、又度天門嶺以迫祚榮。祚榮合高麗、靺鞨之衆以拒楷固;王師大敗、楷固脱身而還。屬契丹及奚盡降突厥、道路阻絶、則天不能討、祚榮遂率其衆東保桂婁之故地、據東牟山、築城以居之。祚榮驍勇善用兵、靺鞨之衆及高麗餘燼、稍稍歸之。聖暦中、自立爲振國王、遣使通於突厥。其地在營州之東二千里、南與新羅相接。越熹靺鞨東北至黑水靺鞨、地方二千里、編戸十余萬、勝兵數萬人。風俗瑟高麗及契丹同、頗有文字及書記」とあるが、『新唐書』渤海伝には「渤海、本粟末靺鞨附高麗者、姓大氏。高麗滅、率衆保挹婁之東牟山、地直營州東二千里、南比新羅、以泥河爲境、東窮海、西契丹。築城郭以居、高麗逋殘稍歸之。萬歳通天中、契丹盡忠殺營州都督趙文翽反、有舍利乞乞仲象者、與靺鞨酋乞四比羽及高麗餘種東走、度遼水、保太白山之東北、阻奧婁河、樹壁自固。武后封乞四比羽爲許國公、乞乞仲象爲震國公、赦其罪。比羽不受命、后詔玉鈐衛大將軍李楷固、中郎將索仇撃斬之。是時仲象已死、其子祚榮引殘痍遁去、楷固窮躡、度天門嶺。祚榮因高麗、靺鞨兵拒楷固、楷固敗還。於是契丹附突厥、王師道絶、不克討。祚榮即並比羽之衆、恃荒遠、乃建國、自號震國王」とあり、「旧唐書に比して一層詳細である。両書の記事によって、渤海建国の祖は大祚栄で、その民族は靺鞨と高句麗の遺民とであったことが知られる。又大祚栄父子は靺鞨一方の豪酋で、その祖は早くから高句麗に服属していたことも知られる。これが旧唐書に、『高麗之別種』と記され、新唐書に『附高麗者姓大氏』と記された所以である」と述べている。 藤井一二は、『旧唐書』が大祚栄を「渤海靺鞨」、『新唐書』が渤海を「粟末靺鞨」とするのは、前者が大祚栄の出自、後者は渤海領域の由来について説明しているからであり、『旧唐書』では、渤海靺鞨の大祚栄を「高麗別種」、『新唐書』は渤海はもとの粟末靺鞨で高句麗に属し、姓は大氏であると記しているが、『新唐書』「渤海、本粟末靺鞨附高麗者」を「渤海はもと粟末靺鞨の地であり高句麗に属した」と解釈すれば、渤海は粟末靺鞨を主体に建国され、粟末靺鞨はかつて高句麗に隷属していたことを意味し、『旧唐書』「渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種也」の「A(国)、(本)B之別種也」は、「Aは本来、Bの別種(別の種類)」と解釈され、「A」国の「B」国からの派生関係を示しており、「渤海靺鞨大祚榮者、本高麗別種也」における高句麗の別種としての対象は、個人ではなく「国」としての渤海靺鞨であり、「高麗」はたんに「高句麗人」ではなく、貊・夫余・沃沮・拘茶・蓋馬などの多様な種族を包括していた「高句麗」であり、高句麗を同一種族による国家とみるのは適当ではなく、貊・夫余・沃沮・拘茶・蓋馬などを含めて「高句麗人」と表記したものと理解すべきであり、「本高麗別種」は渤海靺鞨はかつて高句麗を構成した一種族によって建国されたという意味であり、「本‥別種」は、歴史的系譜として「‥国から分岐した一種類」(‥国の系譜を引く別の種類)として理解すべき、と述べている。 小川裕人は、渤海の称の変遷を以下のように分析している。 『旧唐書』「渤海靺鞨大祚栄者、高麗別種也」、『唐会要』巻九六渤海「渤海渤海靺鞨、本高麗別種、後徙居營州、其王姓大氏、名祚榮、先天中封渤海郡王、子武藝」、『五代会要』巻三十「渤海本號靺鞨、蓋高麗之別種也」、『新五代史』四夷附録は『五代会要』に従い、『宋会要』「渤海本高麗之別種」、『宋史』は『宋会要』に従っているが、『旧唐書』は後晋時代に成り、『唐会要』は宋初に成り、『五代会要』『新五代史』は宋時代に成り、『唐会要』は唐代に一部が編纂されたが(徳宗の時に蘇冕が四十巻を編纂、武宗時に崔鉉が続四十巻を編纂、建隆時に王溥が百巻を成した)、『唐会要』渤海の本文は貞元八年閏十二月からはじまり、この部分は崔鉉が徳宗貞元年間以後の記事を集めて成したものである。 蘇冕の書に渤海はなく、『唐会要』渤海の序も蘇冕によるものではなく、崔鉉あるいは王溥により成ったものであることから、大祚栄を「高麗別種」としたのは唐末以後であり、当時の名称を正確に伝える『冊府元亀』は、高句麗と渤海を明確に区別しており、靺鞨あるいは渤海とのみ記述しており、大祚栄を冊封するため唐から渤海へ派遣された崔忻の使命を「勅持節宣労靺鞨使鴻臚卿崔忻」としていることからも当時の唐人が渤海のことを靺鞨と称していたことは確実である。 渤海は唐からの封號である「渤海郡王」と称し、靺鞨を附称しなかったことは、神亀四年の日本とのはじめての通交時の日本史料からも裏付けられ、渤海は、先天二年に渤海郡王に封ぜられた頃から渤海と號して靺鞨と称しておらず、開元年間に至るまで靺鞨と称したのは渤海人ではなく唐人であるとみられる。 『冊府元亀』巻九七の開元九年十一月條には、「渤海郡靺鞨大首領、鉄利大首領、拂涅大首領、契丹蕃郎将倶来朝、並拜折衝、放還蕃」とあり、来朝した渤海のことを「渤海郡靺鞨」と記しており、開元十年十一月條「渤海遺其大臣味勅計来朝、並献鷹」、開元十二年二月條「渤海靺鞨遣其臣加作慶」、開元十三年正月條「渤海遣大首領烏借芝蒙」、開元十四年には再度「渤海靺鞨」と記しているが、天宝以後は大体は渤海とのみ記しており、唐人は渤海をはじめは「靺鞨」と称し、その後「渤海郡靺鞨」、そして「靺鞨」または「渤海」と呼ぶに至っている。 『冊府元亀』巻九七一開元二年二月條「是月拂涅靺鞨首領失異蒙、越喜大首領烏施可蒙、鉄利部落大首領闥許離等来朝」にある払涅靺鞨、鉄利靺鞨、越喜靺鞨などの靺鞨諸部族の朝貢は、開元二年二月が初めてであるが、開元元年頃の「渤海靺鞨」の称は、払涅靺鞨、鉄利靺鞨、越喜靺鞨などの靺鞨諸部族の来朝した開元二年以後は存在しないため、渤海の名称変遷は、払涅靺鞨、鉄利靺鞨、越喜靺鞨などの靺鞨諸部族の来朝と関連しており、唐人は、払涅靺鞨、鉄利靺鞨、越喜靺鞨などの靺鞨諸部族と渤海とを区別する必要性から「渤海郡靺鞨」と記し、次いで「渤海」あるいは「渤海靺鞨」と称するに至ったとみられる。
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