『旧唐書』渤海靺鞨伝「高麗別種」論争とは? わかりやすく解説

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『旧唐書』渤海靺鞨伝「高麗別種」論争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 15:19 UTC 版)

渤海 (国)」の記事における「『旧唐書』渤海靺鞨伝「高麗別種」論争」の解説

『旧唐書』渤海靺鞨伝は「高麗別種」としているが、『新唐書』渤海伝は「大氏は、粟末靺鞨高句麗属する者」となっており、基本史料から見解異なり『新唐書』渤海、本粟末靺鞨高麗者、姓大氏。高麗滅、率衆保挹婁東牟山、地直營州東二千里、南比新羅、以泥河爲境、東窮海、西契丹築城郭以居、高麗逋殘稍歸之」記事朴時亨以ってして「『渤海は本来粟末靺鞨人である。そのうち、かつて高句麗服属していた姓大氏なる者が、高句麗滅亡後靺鞨の衆を率いて挹婁東牟山に拠点を置き国を建てたのであるその後靺鞨人とは異な高句麗遺民次第帰属するようになった』と読みとる以外ないくだり」であるのに対して『旧唐書』高麗別種表現曖昧であることから、「高麗別種」とは何かをめぐって論争となっている。 大祚栄靺鞨人なのか、或いは高句麗人なのかという議論は、『新唐書』の「渤海、本粟末靺鞨高麗者、姓大氏」という記事と、『旧唐書』の「渤海靺鞨大祚榮者、本高別種也」という記事解釈相違よる。渤海の建国記事伝え『旧唐書』『新唐書』のうち、どちらの史料重視して大祚栄高句麗系とみるか靺鞨系とみるかに分かれており、韓国北朝鮮学界『旧唐書』史料的価値重視して大祚栄高句麗系」と主張しており、中国学界『新唐書』記録重視して大祚栄靺鞨人であり、渤海主体民族靺鞨系」と主張している。 韓国・北朝鮮研究者 高句麗研究会朝鮮語版会長の徐吉洙(朝鮮語版)(朝鮮語: 서길수、西京大学)や朴時亨などの韓国・北朝鮮研究者『旧唐書』『新唐書』あらわれる「別種記事探し出し、「別種」は「どこから出た支流」という意味で使われた用語であると主張している。 「百濟國 本亦夫餘別種百済国は本来、夫餘別種である)」(『旧唐書』列伝一四九上、東夷百済国条) 「鐵勒匈奴別種鉄勒は本来、匈奴別種である)」(『旧唐書』列伝一四九下、北狄鉄勒条) 「高麗者、出自夫餘別種也(高句麗は、夫餘から出た別種である)」(『旧唐書』列伝一四九上、東夷高麗条) 「奚國、匈奴別種(奚国は大体、匈奴別種である)」(『旧唐書』列伝一四下 北狄・奚条) 「日本国者、倭国別種也(日本国は大体、倭国別種である)」(『旧唐書』列伝一四九上、東夷日本国条) 「室韋契丹別種室韋契丹別種である)」(『新唐書』列伝一四四上、北狄室韋条) 「高麗、本夫餘別種也(高句麗は本来夫餘別種である)」(『新唐書』列伝一四五、東夷高麗条) 「百済夫餘別種也(百済夫餘別種である)」(『新唐書』列伝一四五、東夷百済条) 「高麗、本夫餘別種也(高句麗は本来夫餘別種である)」(『新唐書』列伝一四五、東夷高麗条) 高句麗研究会朝鮮語版会長の徐吉洙(朝鮮語版)(朝鮮語: 서길수、西京大学)は以下の主張をしている。 日本中国学者高句麗別種とは、「高句麗種族ではない、他の種族」という意味であると考え韓国・北朝鮮学者は「高句麗から出た支流」という 意味に解釈するのである。(中略別種別類、種などはいずれも「どこから出た支流」という根源明らかにするために使われ類似語であるということがわかる。 朴時亨は以下の主張をしている。 『旧唐書』渤海伝の篇名は「渤海靺鞨になってはいるが、その内容自体渤海国創建者ほかならぬ高句麗人であることを明示している。それはまず、「渤海靺鞨大祚栄は、もともと高句麗別種渤海靺鞨大祚榮者、本高別種也。)」であると明記した。しかし、ここでいわゆる別種」とは、いわば動植物ある種があり、それに近い亜種あるいは別種あるように、高句麗人とはやや異な何らかの別種がある、ということ意味するのではない。同じ『旧唐書』の他の東夷列伝をみれば、「高句麗夫余から出た別種」、「百済は本来同夫余別種」、「鉄勒は本来匈奴別種」、「室韋契丹別種」、「霫は匈奴別種等等記録されていることからして、このいわゆる別種は、今日歴史学証明しているように、だいたい原種族と同一種族であってそれ以外何らかの変種ではない。高句麗はまさに夫余であってその他の何らかの変種ではない。大祚栄場合ほかならぬ高句麗人なのである。 — 朴時亨渤海研究のために 北朝鮮学界は、「別種という言葉血統的根源同じだが、文化と暮らす地域が少し異な同族を指す」と定義している。 宋基豪(朝鮮語: 송기호、ソウル大学)は、『旧唐書』高麗別種」とは、『新唐書』「本粟末靺鞨高麗者(もとの粟末靺鞨で、高麗付属していた者)」のことであると解釈しており、いくつかの情況から大祚栄靺鞨人であるが、高句麗服属していたことから一定の部分高句麗化され乞乞仲象経てさらに加速され靺鞨高句麗となった主張した韓国の『韓国民族文化大百科事典』は、『旧唐書』には「渤海靺鞨大祚榮本高別種也」とあり、その解釈について大祚栄高句麗人あるいは靺鞨人なのかは議論絶えないが、大祚栄純粋な高句麗人でもなく、純粋な靺鞨人でもなく、『旧唐書』に「高麗別種」とあるのはこのためであり、大祚栄粟末靺鞨出身で、かつて高句麗亡命しいたものとみられる述べている。 『旧唐書』登場する高麗別種」の語に留意して、盧泰敦(朝鮮語版)(朝鮮語: 노태돈、ソウル大学)は、大祚栄を「高句麗化した粟末靺鞨人」と解釈しており、この解釈に従うと『旧唐書』は「渤海靺鞨大祚栄高句麗化した粟末靺鞨人」という解釈になる。 韓国高校歴史教科書は、大祚栄出自高句麗武将とだけ紹介し『新唐書』渤海記事には言及せず、『旧唐書』渤海記録だけを提示して渤海私たち民族の国であることを証明できる根拠史料を介して調べてみよう」と記述しており、李孝珩(朝鮮語: 이효형、釜山大学)は、「渤海帰属問題以前に、歴史認識公平性問題引き起こす」と批判している。 国史編纂委員会は、『旧唐書』は「渤海靺鞨大祚栄は、もと高麗別種である」とし、『新唐書』は「渤海は、もとの粟末靺鞨で、高麗付属していた。姓は大氏である」とし、『旧唐書』は「高麗別種」という曖昧な表現大祚栄靺鞨要素高句麗要素同時に言及している一方『新唐書』大祚栄出自明確に粟末靺鞨としている。『三国遺事』は、朝鮮史書である『新羅古記』を引用して大祚栄はもとの高句麗武将とし、『帝王韻紀中国語版)』も大祚栄をもとの高句麗武将述べており、『高麗史』及び『高麗史節要』は、渤海粟末靺鞨としつつも「高句麗人大祚栄」と規定している。一方崔致遠は『謝不許北国居上表』において、大祚栄は元の粟末靺鞨としており、『三国遺事』は、中国史書である『通典』引用して渤海は元の粟末靺鞨で、その酋長である大祚栄至って国を建国した」としており、大祚栄粟末靺鞨規定しており、大祚栄出自説明する『旧唐書』高麗別種」、『新唐書』「本粟末靺鞨高麗者」、『新羅古記』「高麗旧将」を総合して大祚栄出自紐解くと、渤海建国した粟末靺鞨松花江一帯居住地としており、早くから高句麗隣接していた。靺鞨軍事力優れており、高句麗周辺国家との戦争では靺鞨高句麗共同戦争行っていることを史料確認することができ、645年唐の第一次高句麗出兵英語版)において、唐太宗捕虜となった高句麗人を解放する代わりに靺鞨人3300人を埋め殺し654年には高句麗靺鞨連合して契丹攻撃しており、655年には高句麗百済靺鞨連合して新羅北辺境に侵攻しており、左様靺鞨高句麗連合して積極的に参戦している。6世紀末に高句麗粟末靺鞨地域進出し粟末靺鞨高句麗服属したが、大祚栄先祖はこの時に高句麗服属し、高句麗移住したみられる。従って、『旧唐書』高麗別種」とは、大祚栄種族が「高句麗とは他の種族」であることを意味し、即ち、大祚栄種族は「粟末靺鞨」であり、大祚栄先祖高句麗移住し靺鞨特有の軍事力発揮して高句麗武将地位上り詰め粟末靺鞨ありながら高句麗武将として軍功をあげた。大祚栄高句麗生活していることから、ある程度高句麗化され、まさに『旧唐書』高麗別種」とは、粟末靺鞨ありながら高句麗化され大祚栄意味し、父の乞乞仲象靺鞨名であることとは異なり、姓は大、名は祚栄という漢姓漢名であることを鑑みると、父の乞乞仲象よりもある程度高句麗化していることが伺われ、大祚栄高句麗滅亡後高句麗遺民身分営州強制移住され、契丹暴動混乱乗じて、他の高句麗遺民靺鞨などを結集して営州脱した結局『旧唐書』高麗別種」、『新唐書』「本粟末靺鞨高麗者」、『新羅古記』「高麗旧将」と多様に記録され大祚栄出自は「大祚栄粟末靺鞨ありながら高句麗移住し高句麗化したもとの高句麗武将」という複合的アイデンティティをもつ大祚栄説明していると結論付けている。 卞麟錫(朝鮮語: 변인석、英語: Pyun, In-seok、亜洲大学)は、「『旧唐書』『新唐書』見解組み合わせて解釈することは避けねばならず、何故なら『旧唐書』『新唐書』では異なる見解示しているからである」として、朴時亨は「別種」を「亜種」と解釈しているが、「別種」とは生物でいう「亜種」という意味の「変種ではなくて従属関係あらわしており、従って「別種」とは「亜種」「変種」であるという主張には賛成できず、中国史書みられる別種」とは主体支配階層ではなく、他系統という意味であり、高句麗滅びると、その遺民靺鞨突厥営州移されていたが、大祚栄もこれらとともに雑居地である営州移り大祚栄靺鞨に分投し、散乱した理由定かではないが、大祚栄靺鞨とともに一団となった事実だけでも旧高句麗人と靺鞨人を中心とした連合体指導者であることは間違いなく複数部族混在的な性格をもつ連合体実体把握することができなかった中国史書高句麗中心連合体誤って解釈したものが「別種」であり、編纂した史官が、中国史書前代民族系統記録から機械的に踏襲して別種」を使用したのであり、従って『旧唐書』を「渤海靺鞨大祚栄は、本来、高句麗別種である」というように「別種」を「変種の意味解いてはならず『新唐書』二十二には、高句麗百済について「扶餘別種」とあり、高句麗百済支配層は本来夫余から割れた種であることを鑑みて渤海多民族国家であることを主眼に置くと、大祚栄高句麗人あるいは靺鞨人であるかは不明であるが、「高麗別種」とは渤海支配層高句麗系であることを指していると推測できる主張している。 朝鮮時代許穆李瀷安鼎福朝鮮語版)、得恭(朝鮮語版)などは、すでに『旧唐書』『新唐書』折衷的解釈する傾向示しており、『旧唐書』の「高麗別種」とは『新唐書』の「本粟末靺鞨」のことであるとしており、「高麗別種」=「粟末靺鞨人」としている。 靺鞨、本粟末靺鞨高句麗別種有野勃、三世乞乞仲象、與其徒渡遼河、保太白山東、仲象死、子祚榮嗣。 — 許穆、眉叟記言、巻三二・東事・靺鞨条 許眉叟、作渤海列傳、頗欠詳、渤海粟末靺鞨高句麗別種。 — 李瀷、星湖僿説、経史門・渤海 靺鞨大祚榮遁去、初契丹之亂、有乞乞仲象者、與高句麗別種靺鞨粟末部落乞四比羽高句麗餘種、東走渡遼水。 — 安鼎福、東史鋼目、巻四下 震國公姓大氏、名乞乞仲像。粟末靺鞨人也。粟末靺鞨者、臣於高句麗者也。 — 得恭、渤海考、君考 朝鮮語版ウィキソースに本記事関連した原文あります。발해고/군고/진국공 中国研究者 国忱(黒竜江省文物考古研究所)、魏国忠(黒竜江省社会科学院歴史研究所)、韓東育東北師範大学)、張博泉(吉林大学)、劉毅遼寧大学)などの中国研究者は、韓国・北朝鮮研究者主張する高麗別種=高句麗人」という解釈恣意的な史料解釈批判している。 張碧波(中国辺疆史地研究センター中国語版))は、「別種」とは古代の中国史家が、民族源流民族関係記述するときに作成した特有の概念であり、「別種」とは「本種」とは異なるという意味であり、従って「高麗別種」とは渤海高句麗王家から派生した政治勢力という意味ではなく中華民族形成過程では、民族文化衝突交流融和複雑なプロセス経て民族遷移絶え行われ民族民族分裂統一変化帰付状況は非常に複雑化し、『新唐書』はこの複雑なプロセス認識して『旧唐書』の「高麗別種」という曖昧な表現を「渤海粟末靺鞨高麗者、姓大氏」と明確に記録した主張した。 王成国遼寧省社会科学院歴史研究所)は、「高麗別種」とは高句麗別部という意味であり、乞乞仲象大祚栄首領とする粟末靺鞨はかつて高句麗支配下にあり、粟末靺鞨遼西営州移住する前、粟末靺鞨高句麗支配され粟末靺鞨高句麗の別働部隊として、長期間高句麗一緒に生活し、共に戦争戦ったので、『旧唐書』編纂者粟末靺鞨高句麗別種史書書いた述べている。 姜守東北師範大学)は、中国古代文献では「別種」とは、すでに決められ含意があると主張しており、 「別種」とは「別族」と同様の意味である「他種」という意味であり、「同種」の末裔傍系は「分種」であって別種ではなく、「別種別部は同じである。それぞれ互いに同じ政治共同体属しているが、種族上でそれぞれ互いに異な部落」と述べており、この「別種」の理解基づいて渤海靺鞨大祚榮者、本高別種也」を解釈すると、渤海の建国者である大祚栄はかつて高句麗隷属していた粟末靺鞨人となりこのため『旧唐書』は、大祚栄を「高麗別種」と呼んだ主張したまた、姜守東北師範大学)は、『旧唐書』は、渤海を「北狄伝」に収めて北狄一員として扱っており、「高麗別種」とあるにもかかわらず高句麗収めた東夷伝」には収めておらず、一方高句麗は「東夷伝」に収めて東夷一員として扱い『旧唐書』編纂者大祚栄属す渤海高句麗明確に異民族区別していることを指摘している。 魏国忠(黒竜江省社会科学院歴史研究所)と郝慶云(黒竜江省社会科学院歴史研究所)は、『旧唐書』の「渤海靺鞨大祚榮者、本高別種也」記事の「高麗別種」の解釈以前に、そもそも渤海靺鞨大祚榮者、本高別種也」として大祚栄靺鞨であることを宣言しており、実質的に『新唐書』『旧唐書』矛盾しておらず、『新唐書』の「粟末靺鞨高麗者」とは『旧唐書』の「高麗別種」を指していると指摘している。 劉毅遼寧大学)は、『新唐書』『旧唐書』編纂過程上、全体的に『新唐書』の方が『旧唐書』より優れており、仮に『旧唐書』記事を「大祚栄高句麗人」と仮定しても、『新唐書』の方が優れているため『新唐書』記事正しいと主張しており、『新唐書』『旧唐書』多く問題点修正している事実上『旧唐書』改訂版であり、『新唐書』『旧唐書』参考していない新史料、なかでも渤海滞在して渤海直接見聞し、その民族政治経済文化社会風俗に関する正確な記録残した張建章の『渤海国記』を参照しており、編纂者主観的な判断基づいた『旧唐書』よりもはるかに優れている評価した劉毅遼寧大学)は、別種の意味について増村宏の「各史籍について別種の用語を検討すれば、(1)唐代史料多用され唐代史書準じて旧唐書多用注意される。(2)別種多用唐代史書一つ書法である。(3)別種当該民族国人の自言を表すものではなく中国側史書撰述者をふくむ)の判断である」という主張と、国忱と魏国忠の「別種と本種、或いは正胤とが違った二つ概念であり、その区別明かなであろう」という主張から、「『高麗別種』という意味は、『高麗の本種』ではないという中国史書撰述者の判断であった分かる『旧唐書』渤海伝の文を見ると、史書撰述者はまず『渤海靺鞨大祚栄』と明記し、すなわち大祚栄所属する民族靺鞨であるとみられ、後の『高麗別種』の用語は史書撰述者の劉昫などの判断であろう」が、読者理解には差がある為間違った結論を出す疑いもあり、したがって『旧唐書』改正版である『新唐書』が、その渤海関連記事にはさらに大祚栄所属する民族を、直接に『もと粟末靺鞨と書き直している。これが事実に基づく定説であろう」と述べている。 王健群(吉林省文物考古研究所)は、中国史料に登場する別種」とは「同種とは異なるが、隷属していた者」を指し、従って、『旧唐書』高麗別種」とは「高句麗同種とは異なるが、高句麗隷属していた者」という意味であり、『旧唐書』は「大祚栄高句麗同種とは異なるが、高句麗隷属していた者」としか解釈できず、それを『新唐書』は「もとの粟末靺鞨で、高麗付属していた。姓は大氏である」と明確に説明しているだけであり、『旧唐書』巻百二十四には、高句麗人である李正己中国語版)を「李正己高麗人也。」と記載しており、大祚栄高句麗人であるなら李正己中国語版同様に高麗人」と直接書くはずであり、「高麗別種」などと曖昧に記載しない指摘している。 劉振吉林省博物館英語版))は、『旧唐書』渤海靺鞨大祚榮者、本高別種也」は、大祚栄高句麗にかつて服属していたが、その民族靺鞨属しており、高句麗人と同一民族ではないことを意味していると指摘している。 馬一虹(中国社会科学院歴史研究所)は、「別種」とは「曖昧な意味」を含意した単語であり、中国古代史家が歴史上の関係や連携密接な関係にある各種に対して、その複雑な関係性故に各種族を区別するために用いた慣習的な概念であると指摘した。即ち、居住あるいは活動区域が近いあるいは同じであり、習慣も近い二つ種族入り乱れており、容易に見分けつかない状況採用され一種曖昧な区別方式だとした。 韓東育東北師範大学)は、韓国・北朝鮮研究者が「別種解釈において中国論理反して使用し高麗別種」を「もと高句麗人」とみなす論法をとるなら「靺鞨別種」「渤海別種」をどう理解すべきだろうかと批判している(一然『三国遺事』で、大祚栄粟末靺鞨酋長とのみ言及し渤海を「靺鞨別種」と結論付けている)。 立國於大山南國號渤海。按上諸文、渤海靺鞨別種。 — 三国遺事巻一靺鞨一作勿吉渤海 中国語版ウィキソースに本記事関連した原文あります三國遺事/卷第一#樂浪國 女真者、渤海別種也、契丹謂之真。 — 武経総要前集二十二 中国語版ウィキソースに本記事関連した原文あります武經總要/前集/卷二十二#奚、渤海女真 女眞渤海別種也。 — 三朝北盟會編(中国語版)、巻三八靖康元年『新唐書』渤海伝や新羅崔致遠作成し新羅王孝恭王)から唐皇帝宛てた国書謝不許北国居上表』など大祚栄とその統治集団を「靺鞨人」と記した史料存在するが、「高麗人」と記した史料存在しない語法修辞的角度から見れば、「別種」という熟語の中で、「別」と「種」の間は並列関係でなく、従属関係であり、前の「別」の字は間違いなく後の「種」字の説明限定であり、「別という意味」、「別個の」、「別の」という意味で解釈できるだけであり、「別種」の本来の意味は、元来同じ種類から分かれた「分種」ではなく、むしろ「別種」の種族称されるものが、種族の源上の分類も同じではなく、「高麗別種」とは乞乞仲象大祚栄父子とその首領たちの「族属」を指しており、したがって国籍」・「国別」を意味せず、『旧唐書』高麗別種記事から導き出されるのは、乞乞仲象大祚栄父子とその首領は、高句麗人や高句麗政権密接な関係を有しているが、高句麗人ではない。 大祚栄一族が「高麗別種」であるというだけで、高句麗人と結論づけるのは、一方偏り根拠乏しく高句麗説支持者依拠し『旧唐書』高麗別種記事前文には「渤海靺鞨大祚栄」と明記されており、渤海樹立した大祚栄靺鞨人であるという前提で、初めてそれが「高麗別種」と明示され『新唐書』北狄伝の「渤海は、本粟末靺鞨高麗に付く者にして、姓は大氏」の記事とは根本的な違いはなく、『新唐書』及び『旧唐書』両者とも大氏の所属する民族靺鞨であると明確にしており、『新唐書』はそれが粟末靺鞨ということ指摘しているにすぎず、大氏の系統を「高麗に付く者」とする文言は、『旧唐書』高麗別種」の概念に対して適切な説明加えている。 『隋北風俗記』記事によると、靺鞨諸族の中で、厥稽部・忽使来部など八部兵数はわずか千人にすぎず、その中の多く前後して高句麗の属民となるか、高句麗帰服したのであって、唐が高句麗を滅ぼすと、一部の「高句麗に付く者」が高句麗遺民と共に唐によって遼西及び中原移され、大氏はこの「高句麗に付く者」の中の有力な一族であり、高句麗帰服した粟末靺鞨人は、かつて匈奴により征服され匈奴の属部にされた鉄勒と同様であり、鉄勒匈奴の「匈奴別種」とされたのと同様、靺鞨人は『旧唐書』によって「高麗別種」と記載され『旧唐書』高麗別種」と『新唐書』高句麗に付く者」は同一概念であり、大氏を含む靺鞨諸部の「高句麗に付く者」が、高句麗隷属していることを指し、「高麗別種」だから高句麗人であるという解釈にはならない『旧唐書』及び『新唐書』渤海伝は、大祚栄政権樹立経過記述するにあたり大祚栄が「高麗靺鞨の衆を合わせ」、「祚栄は驍勇にして善く兵を用う靺鞨の衆及び高麗余燼は、稍稍(しだい)に、之に帰す」、「高麗の逋残(逃散した敗残兵)、稍く之に帰す」、「高麗靺鞨の兵に因りて、(固(将軍)を拒む」と明言し、どれも靺鞨人を「高句麗に付く者」とみなしていた。 『新唐書』『旧唐書』遅れて編纂されていることから『旧唐書』比して利用できる史料がより多く、唐の張建章の『渤海国記(中国語版)』のような第一級史料包括しており、史料的・学術的価値『旧唐書』よりも高い。したがって『新唐書』渤海、本粟末靺鞨高麗者、姓大氏。」の記事の方が信頼性が高い。渤海関連記事『旧唐書』より『新唐書』の方が史料的・学術的価値が高いことは中国北朝鮮日本の研究者認めており、劉毅は「『旧唐書』唐代後半とりわけ宣宗(八四六-八五九)以降に関して史料不足から内容的に粗略錯誤等も多いとされるそれ以上に、『旧唐書』五代紛乱最中編纂したので、沢山の唐代史料戦乱散佚され、それを収録できなかった。そのため北宋から明代まで、ほぼ五百年間間にわたって史書として重視されなかった」「『新唐書』は、宋代新出の諸史料、及び筆記小説、碑記、家譜野史の類まで広く採用して唐代後半に関する記事補充し『旧唐書』後半疎略の弊を解消したこと、列伝増した他、天文、暦志、地理食貨芸文志詳細になる」「『旧唐書』は、『夷』、『狄』(中国官修正史異民族対す卑称)の記事に関して史料不足から内容的に疎略錯誤も多いとされ中でも日本に関する記事の『倭国』『日本国』両伝を分立することに、最も明らかであろう」「『旧唐書』五代紛乱最中編纂されたので、沢山の唐代史料戦乱散佚し、それを収録できなかったが、一方、わずか四年間編纂期間であり(『新唐書』の方が十七年間)、正史として、なお短かったためであろう」「増村宏氏は中国・日本の諸史料によって、『新唐書日本伝の記述当時新史であった日本奝然日本年代記参照している』と考証する。それを傍証として、異民族関連記事については、『新唐書』『旧唐書』比べて史料的価値より高く正しいと考える」「『新唐書』は、古籍の中では当時渤海状況に関する第一級の専著であった張建章の『渤海記』によって、編纂されたとみられるのである」「要するに、多く関連する内外古文献からみれば、『新唐書』は良史として、その信憑性が高いであろう認められるそれゆえ『新唐書』渤海人出自について判断は、事実基づいたことである」「約言すれば『旧唐書』『新唐書』編纂した経緯によって、また歴代中国の歴史学者がそれを論議したことから見ると、『新唐書』『旧唐書』改正版で、前者史料価値後者よりも高いことが知られる。これによって、『新唐書』渤海伝の『渤海粟末靺鞨、附高麗者、姓大氏』という渤海記事は全く正しいことだと考えられよう」と述べている。北朝鮮朴時亨は、「周知のように『新唐書』『旧唐書』欠陥是正するために編纂されたものであるが、両者にはそれぞれ長所と短所があると一般に認められている。とくに『新唐書』渤海伝についていえば、それは『旧唐書』渤海伝では参照されなかったと思われる史料(『渤海国記(中国語版)』)を利用して渤海文物制度その他に関す事実補充した」「世に出る世の全文筆家から『旧唐書』を完全に圧倒したといわれた『新唐書』」と述べている。日本和田清は、「新旧唐書史料的価値については、古来色々の批判があるが、少くとも渤海に関する限り旧唐書価値新唐書それよりも遥に低いようである。旧唐書渤海伝の記事誠によく冊府元亀所伝一致しているけれども、概して言えば、それは唐朝との交渉一面限りその他の事は殆ど何物伝えていない。之に反して新唐書渤海伝には、旧唐書にはなくて、新唐書にのみあるよう記載極めて多い。そうしてそれは大抵渤海国内の内情に関することのみである。例えば、渤海内部行われた歴代国王諡号年号や、何王の時どの地方経略されたとか、もしくは国内行政区割・官制地方名産のこと等がこれである。これによって始めて我々は渤海国情大略察知することが出来る」と述べている。日本鳥山喜一は、「もと新唐書旧唐書欠漏謬誤の補正をするための編述であるから新史料の採録のあったことは当然」「和田清博士は『渤海国地理考』において、この金毓黻氏の説に出発して新旧両書の渤海伝の史料的価値批判触れ、『新唐書渤海伝の記事旧唐書と違う部分は、殆ど全く張建章の渤海国記に拠ったものであって、しかも張建章は直接これを当時見聞によって獲て来たのであるから、それは必ず渤海側の所伝と見るべく、中には渤海記録そのまま写したものもあること、後に説く如くで、相当に尊重せられなければならぬ性質のものである』とさえいわれて、渤海国によったであろう思われる新唐書記事高く評価された」と述べている。日本新妻利久は、「結局は新旧唐書優劣比較論に帰することであるが、新唐書記事史学研究常道、否な学問研究常道にも合致していて、充分に信用価値ありと認めらるべきであるということを、新唐書編纂事情研究することによって確認が可能…次に新唐書良書たることを追究することにするが、この至難な問題については、幸に、二十二史箚記新唐書の良史たることの趙翼見解述べられていて、贅言要しないと思うから、それを載せて卑見換えることにする。『宋仁宗劉昫等所撰唐書卑弱淺陋。今翰林學士歐陽修。端明殿學士宋祁刊修。曾公亮提舉其事。十七年而成凡二百二十五卷修撰紀志表。祁撰列傳故事。…祁奉詔修唐書十餘年出入臥内嘗以稿。自隨爲列傳五十卷祁傳。論者新書事增於前。文省於舊。…至宋時文大興殘編故冊次第出見。觀新唐書藝文志所載唐代史事無慮數十百種。皆五代唐書時。所未嘗見者。據以參考自得精詳。…是刊修新書時。又得諸名手佽助。宜其稱良史也。』とあって新唐書旧唐書比して如何に優れており、如何に精詳であったかが知られる。したがって旧唐書記されていないことが、新唐書記されているのは当然で、旧唐書記されていない乞乞仲象や、元義・璵、及び彝震以後諸王等が新唐書記されているのは、その例証」と述べている。 高句麗説支持者依拠し『旧唐書』さえも、渤海大祚栄記述するにあたり、これを「渤海靺鞨」と称し、そして渤海を「北狄伝」に収め漢人からみて東北アジアに住む諸民族卑称である北狄一員として扱っており、「高麗別種」とあるにもかかわらず高句麗収めた東夷伝」には収めておらず、渤海は「北狄」に収められ高句麗漢人からみてみて東アジアに住む諸民族卑称である東夷として扱い渤海高句麗異種族属するとする認識があった。 渤海靺鞨大祚榮者、本高別種也。高麗既滅、祚榮率家屬徙居營州。〈渤海靺鞨の(建国者)大祚栄は、もと高(句)麗の別種である。高(句)麗が既に滅亡(六六八)してしまったので、(大)祚栄は一族率いて営州遼寧省朝陽市)へ移り住んだ。〉 — 旧唐書渤海靺鞨中国語版ウィキソースに本記事関連した原文あります舊唐書/卷199下#渤海靺鞨 日本の研究者 石井正敏は、新羅王から唐皇帝宛てた上表文に「渤海高句麗領内居住していた粟末靺鞨人によって建国された」と記されており、それを前提に1「高句麗ノ殘孽」、2「高麗ノ旧将」、3「惟フニ彼ノ句麗、今ノ渤海タリ」、4「昔ノ句麗ハ則チ是レ今ノ渤海ナリ」などの表現理解すべきであり、「渤海はいわば『在高句麗靺鞨人』を中心に高句麗滅亡後建設されたものであるから、これを『かつての高句麗人によって建設された』ということできよう。したがって例えば、両唐書が、あるいは『高麗別種』のごとく、あるいは『本ト粟末靺鞨』のごとく、一見矛盾した表現をしているかにみえることも、上述のように考えれば、その疑問氷解するであろう」と述べている。 「高句麗殘孽類聚、北依太白山下、國號渤海。」(『三国史記』巻四六崔致遠伝) 「新羅古記云。高麗舊將榮。姓大氏。聚殘兵立國於大山南國號渤海。)」(『三国遺事』巻一靺鞨渤海条) 「惟彼勾麗、今為渤海。」(『東文選』巻四七・新羅王与唐江西高大夫湘状) 「則知昔之勾麗、則是今之渤海。」(『東文選』巻四七・与礼部尚書瓚状) 日野開三郎は、『旧唐書』巻一九九渤海伝の劈頭に「渤海靺鞨大祚榮者。本高別種也。」とあり、大祚栄が「高麗別種」と記しているが、この「高麗別種」という「別種」の内容これだけでは判らないが、『新唐書』二一渤海伝の劈頭には「渤海。本粟末靺鞨高麗者。姓大氏。」とあり、大祚栄粟末靺鞨出身高句麗に附していた者と説明しており、『旧唐書』にいう「高麗別種」とはこうした関係を表現したのであるが、「高麗別種」が単にこうした臣属関係を表しているだけならば、特に大祚栄を「高麗別種」とする必要はなく、「附高麗者」と特に断る必要もないが、特に「附高麗者」としているのは、「その附隷の関係が一般の者より格別親密であったために相違なく、さらに『高麗別種』と表現せられているのは、その親密な附隷関係を通して彼等事実上高句麗人化していたため」であり、大祚栄はおそらく粟末靺鞨ではあったが、高句麗本土遼東に入住し、そこですっかり高句麗化し、「『高麗別種』とは高句麗人化していた粟末靺鞨人を現した語と思われる」と述べている。 鳥山喜一は、『旧唐書』渤海靺鞨大祚榮者、本高別種」と『新唐書』渤海粟末靺鞨記事は「一見相違せるに似たれども、実は必しも然らざるものある也。思ふ旧唐書に『高麗別種也』と規定せるものと、新唐書が『本粟末靺鞨』と指したるものとは、其の対象異にすることに注意せざる可らず、前者渤海民族種族規定せるに非ずして、主権者たる大祚栄高句麗別種なることを云へるもの、而して新唐書国民所属指示して粟末靺鞨なりとし、この句に次げる『附高麗者姓大氏』といへる説明にて、主権者高句麗との関係指示せる」もので『旧唐書』は「渤海靺鞨大祚榮者、本高別種」として「渤海靺鞨」としており、したがって『新唐書』が「粟末靺鞨と云へるにても、論なき所ならんと思惟せらる」と述べており、『新唐書』『旧唐書』における大祚栄出自については、表現違いはあるがどちらも渤海高句麗因縁がふかいこと伝えており、『旧唐書』渤海靺鞨大祚榮者、高麗別種也」と『新唐書』渤海粟末靺鞨、附高麗者姓大氏」のニュアンス考えると、「これは相背反し、相矛盾するものではなくいずれも渤海靺鞨族の国であることをいい、旧唐書大祚栄すくなくとも大氏という渤海建設者出した家系説明重点置いたものであり、新唐書はむしろ渤海国民族的組成面に力点をおき、支配者家系はこれを従的に取扱ったもの」であり、『旧唐書』高麗別種表現から導かれる帰結は、大祚栄もとより純粋な高句麗ではなく靺鞨人の出自であったが、「高句麗との関係-その版籍にあったのは、その父祖にも泝るもので、そういう環境育った人物想定させることと」なり、『旧唐書』大祚栄を「高麗別種」とし、『新唐書』が大氏を「高麗に附せしもの」としたことは高句麗への服事関係が古くからあったとみるべきであり、『旧唐書』高麗別種」は、「高麗に役隷し其の滅亡と共に唐に降りものなるが故」であり、大祚栄高句麗服事していたと解釈するのは『旧唐書』充足するだけでなく、『新唐書』「附高麗者姓大氏」とも矛盾なく解くことができる、と述べている。 和田清は、『旧唐書』渤海伝「渤海靺鞨大祚榮者、本高別種也」と『新唐書』渤海伝「渤海粟末靺鞨高麗者、姓大氏」は、「一見矛盾している」としつつも、渤海高句麗残党と共に唐の擾乱乗じて建国したことは疑いなく、「旧唐書編者がこれを『本高別種也』といったのは正しくの意味であらう。しかし高麗別種といってその同類とはいはなかった」「この時高麗遺族遼東安東都護府管下にあつて遼西の朝暘(営州)に居たのは寧ろ靺鞨余類であった。そうして渤海の国祖はその遼西の朝暘から起こったのである。そうして見れば新唐書明白に『本粟末靺鞨高麗者』とあるのがやはり正しいのではないか」「況して新唐書所伝渤海自身消息を伝へていると思はれるにおいてをやである。尤もこの場合には両唐書所伝は必ずしも矛盾ではない。『本粟末靺鞨高麗者』が即ち『本高別種也』と解釈出来るからである」と述べている。 浜田耕策は、「『旧唐書』伝は『渤海靺鞨大祚栄と書き始め大祚栄所属を『渤海靺鞨』と」しており、「『冊府元亀外臣部・継襲二では『渤海靺鞨』とあり、また『靺鞨渤海郡大祚栄』(『冊府元亀帝王部・来遠、外臣部・褒異、七一八二月)とも記録され」、「『新唐書』伝も大祚栄高句麗付属した粟末靺鞨族の者とみており、両唐書ともに大祚栄政治文化的な所属高句麗付属した靺鞨族と記録」しており、「唐では大祚栄率いられ渤海勢力靺鞨諸族のなかの一つの大種族とみていたことがわかる」と述べている。 河内春人は、高句麗が唐との戦争繰り広げていた時に靺鞨北部の衆が高句麗側についており、隋代以来靺鞨対す高句麗軍事的規制生きていたことを指摘した上でさらには遺民一部突厥よりも近い契丹営州移動した推測するかたくないなによりも『旧唐書』渤海伝には大祚栄を『高麗別種』とした上で高麗既滅、祚栄率家属徒居営州』とあることからも明らかであろう」と述べている。 森部豊は、「営州付近に高句麗別種である大祚栄集団がおり」、「高句麗滅亡時に高句麗の『別種』である大祚栄集団営州近辺にいたこと明らかであり、その中に高句麗人が含まれていたことが示唆されるのである」と述べている。 新妻利久は、『旧唐書』渤海伝「渤海靺鞨大祚榮者、本高別種也。高麗既滅、祚榮率家屬徙居營州萬歳通天年、契丹盡忠反叛、祚榮與靺鞨乞四比羽各領亡命東奔、保阻以自固。盡忠既死、則天命右玉鈐衛大將軍固率兵討其餘黨、先破斬乞四比羽、又度天門嶺以迫祚榮。祚榮合高麗靺鞨之衆以拒固;王師大敗固脱身而還。屬契丹及奚盡降突厥道路阻絶、則天不能討、祚榮遂率其衆東保婁之故地、據東牟山、築城以居之。祚榮驍勇善用兵、靺鞨之衆及高麗餘燼、稍稍歸之。聖暦中、自立爲振國王、遣使通於突厥。其地在營州之東二千里、南與新羅相接。越熹靺鞨東北黑水靺鞨地方二千里編戸十余、勝兵數萬人風俗高麗契丹同、頗有文字及書記」とあるが、『新唐書』渤海伝には「渤海、本粟末靺鞨高麗者、姓大氏。高麗滅、率衆保挹婁東牟山、地直營州東二千里、南比新羅、以泥河爲境、東窮海、西契丹築城郭以居、高麗逋殘稍歸之。萬歳通天中、契丹盡忠營州都督趙文翽反、有舍利乞乞仲象者、與靺鞨乞四比羽高麗餘種東走、度遼水、保太白山東北、阻奧婁河、壁自固。武后乞四比羽爲許國公、乞乞仲象震國公、赦其罪。比羽不受命、后詔玉鈐衛大將軍固、中郎將索仇撃斬之。是時仲象已死、其子祚榮引殘痍遁去、固窮躡、度天門嶺。祚榮因高麗靺鞨兵拒固、固敗還。於是契丹突厥王師道絶、不克討。祚榮即並比羽之衆、恃荒遠、乃建國、自號震國王」とあり、「旧唐書比して一層詳細である。両書の記事によって、渤海建国の祖は大祚栄で、その民族靺鞨高句麗遺民であったことが知られる。又大祚栄父子靺鞨一方の豪酋で、その祖は早くから高句麗服属していたことも知られる。これが旧唐書に、『高麗別種』と記され新唐書に『附高麗者姓大氏』と記され所以である」と述べている。 藤井一二は、『旧唐書』大祚栄を「渤海靺鞨」、『新唐書』渤海を「粟末靺鞨」とするのは、前者大祚栄出自後者渤海領域由来について説明しているからであり、『旧唐書』では、渤海靺鞨大祚栄を「高麗別種」、『新唐書』渤海はもとの粟末靺鞨高句麗属し、姓は大氏であると記しているが、『新唐書』渤海、本粟末靺鞨高麗者」を「渤海はもと粟末靺鞨の地であり高句麗に属した」と解釈すれば渤海粟末靺鞨主体建国され粟末靺鞨はかつて高句麗隷属していたことを意味し『旧唐書』渤海靺鞨大祚榮者、本高別種也」の「A(国)、(本)B之別種也」は、「Aは本来、Bの別種別の種類)」と解釈され、「A」国の「B」国からの派生関係を示しており、「渤海靺鞨大祚榮者、本高別種也」における高句麗別種としての対象は、個人ではなく「国」としての渤海靺鞨であり、「高麗」はたんに「高句麗人」ではなく、貊・夫余沃沮・拘馬などの多様な種族包括していた「高句麗」であり、高句麗同一種族による国家とみるのは適当ではなく、貊・夫余沃沮・拘馬などを含めて高句麗人」と表記したもの理解すべきであり、「本高別種」は渤海靺鞨はかつて高句麗構成した一種族によって建国されたという意味であり、「本別種」は、歴史的系譜として「国から分岐した一種類」(国の系譜を引く別の種類)として理解すべき、と述べている。 小川裕人は、渤海の称の変遷を以下のように分析している。 『旧唐書』渤海靺鞨大祚栄者、高麗別種也」、『唐会要』巻九六渤海渤海渤海靺鞨本高別種、後徙居營州、其王姓大氏、名祚榮、先天中封渤海郡王、子武藝」、『五代会要』巻三十渤海本號靺鞨高麗別種也」、『新五代史四夷附録は『五代会要』に従い、『宋会要』「渤海本高麗之別種」、『宋史』は『宋会要に従っているが、『旧唐書』後晋時代成り、『唐会要』は宋初に成り、『五代会要』『新五代史』は宋時代成り、『唐会要』は唐代一部編纂されたが(徳宗時に冕が四十巻を編纂武宗時に崔鉉が続四十巻を編纂建隆時に王溥が百巻を成した)、『唐会要渤海本文貞元八年十二月からはじまり、この部分は崔鉉が徳宗貞元年間以後記事集めて成したのである冕の書に渤海はなく、『唐会要渤海の序も冕によるものではなく、崔鉉あるいは王溥により成ったのであることから、大祚栄を「高麗別種」としたのは唐末以後であり、当時の名称を正確に伝える『冊府元亀』は、高句麗渤海明確に区別しており、靺鞨あるいは渤海とのみ記述しており、大祚栄冊封するため唐から渤海派遣され崔忻使命を「勅持節宣労靺鞨使鴻臚卿崔忻」としていることからも当時唐人渤海のことを靺鞨称していたことは確実である。 渤海は唐からの封號である「渤海郡王」と称し靺鞨を附称しなかったことは、神亀四年の日本とのはじめての通交時の日史料からも裏付けられ渤海は、先天二年に渤海郡王に封ぜられた頃から渤海號して靺鞨称しておらず、開元年間に至るまで靺鞨称したのは渤海人ではなく唐人であるとみられる。 『冊府元亀』巻九七の開元九年十一月條には、「渤海郡靺鞨大首領大首領、拂涅大首領契丹郎将倶来朝、並拜折衝放還」とあり、来朝し渤海のことを「渤海郡靺鞨」と記しており、開元十年十一月條「渤海遺其大臣味勅計来朝、並献」、開元十二二月條「渤海靺鞨遣其臣加作慶」、開元十三年正月條「渤海大首領烏借蒙」、開元十四年には再度渤海靺鞨」と記しているが、天宝以後は大体は渤海とのみ記しており、唐人渤海をはじめは「靺鞨」と称しその後渤海郡靺鞨」、そして「靺鞨」または「渤海」と呼ぶに至っている。 『冊府元亀』巻九七一開元二年二月條「是月拂涅靺鞨首領失異蒙、越喜大首領烏施可蒙、鉄利部大首領闥許離等来朝」にある払涅靺鞨鉄利靺鞨越喜靺鞨などの靺鞨諸部族朝貢は、開元二年二月初めてであるが、開元元年頃の「渤海靺鞨」の称は、払涅靺鞨鉄利靺鞨越喜靺鞨などの靺鞨諸部族来朝し開元二年以後存在しないため、渤海の名称変遷は、払涅靺鞨鉄利靺鞨越喜靺鞨などの靺鞨諸部族来朝関連しており、唐人は、払涅靺鞨鉄利靺鞨越喜靺鞨などの靺鞨諸部族渤海とを区別する必要性から「渤海郡靺鞨」と記し次いで渤海」あるいは「渤海靺鞨」と称する至ったとみられる

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