『旧唐書』と『新唐書』の記述の概要
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「女国」の記事における「『旧唐書』と『新唐書』の記述の概要」の解説
東女国は、蘇伐剌拏瞿呾羅ともいい、西羌の別種である。西海中に別の女国があるため、東女と称した。女を王とした。東は茂州・党項と接し、東南は雅州の羅女蛮・白狼夷と界を隔てていた。その広さは東西に9日、南北に20日、徒歩でかかり、大小に80あまりの城があった。その王の居所を康延川といい、弱水が南に流れ、牛皮を船に用いて渡河した。4万あまりの人口が山谷の間に散らばっていた。女王を「賓就」と号し、女官を「高霸」と号し、国事を議論した。 隋の大業年間、蜀王楊秀が使者を派遣して招聘しようとしたが受けなかった。唐の武徳年間、女王の湯滂氏が使者を唐に派遣して朝貢した。突厥の頡利可汗が平定されると、またその使者が唐に入朝した。垂拱二年(686年)、東女国王の斂臂が大臣の湯剣左を唐に派遣して来朝させた。武則天は斂臂を左玉鈐衛員外将軍に冊した。天授三年(692年)、東女国王の俄琰児が武周に来朝した。万歳通天元年(696年)、武周に使者を派遣した。開元二十九年(741年)12月、東女国王の趙曳夫が子を派遣して唐に朝貢した。天宝元年(742年)、玄宗が曲江に宴を催して、趙曳夫を帰昌王に封じ、左金吾衛大将軍に任じた。後に男子を王とするようになった。 貞元九年(793年)7月、東女国王の湯立悉と哥隣国王の董臥庭、白狗国王の羅陀忽、逋租国王の弟の鄧吉知、南水国王の姪の薛尚悉曩、弱水国王の董辟和、悉董国王の湯息賛、清遠国王の蘇唐磨、咄霸国王の董藐蓬が、おのおの部落を率いて唐の剣南西川府に帰順した。湯立悉らはたびたび唐に来朝して、麟徳殿で謁見を受けた。湯立悉は銀青光禄大夫・帰化州刺史に任ぜられ、ほかの首長たちにも官位を与えられた。しかし、羌族の首長たちは吐蕃ともひそかに通交しており、そのため「両面羌」と称された。
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