『旧唐書』と『新唐書』の記述の概要とは? わかりやすく解説

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『旧唐書』と『新唐書』の記述の概要

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/01 07:30 UTC 版)

女国」の記事における「『旧唐書』と『新唐書』の記述の概要」の解説

東女国は、伐剌拏瞿呾羅ともいい、西羌別種である。西海中に別の女国があるため、東女称した。女を王とした。東は茂州党項接し東南雅州の羅女蛮・白狼夷と界を隔てていた。その広さ東西9日南北20日徒歩でかかり大小80あまりの城があった。その王の居所を康延川といい、弱が南に流れ牛皮を船に用いて渡河した。4あまりの人口山谷の間に散らばっていた。女王を「賓就」と号し女官を「高霸」と号し国事議論した。 隋の大業年間、蜀王楊秀使者派遣して招聘ようとしたが受けなかった。唐の武徳年間女王の湯滂氏が使者を唐に派遣して朝貢した。突厥頡利可汗平定されると、またその使者が唐に入朝した。垂拱二年(686年)、東女国王の斂臂が大臣の湯剣左を唐に派遣して来朝させた。武則天は斂臂を左玉鈐衛員外将軍に冊した。天授三年692年)、東女国王の俄琰児が武周来朝した。万歳通天元年696年)、武周使者派遣した開元二十九年(741年12月東女国王の趙曳夫が子を派遣して唐に朝貢した。天宝元年742年)、玄宗曲江に宴を催して、趙曳夫を帰昌王封じ左金吾大将軍任じた。後に男子を王とするようになった貞元九年(793年7月東女国王の湯立悉と哥隣国王の董臥庭、白国王の羅陀忽、逋租国王の弟の鄧吉知、南水国王の姪の薛尚悉曩、弱国王の董辟和、悉董国王の湯息賛、清遠国王唐磨、咄霸国王の董藐が、おのおの部落率いて唐の剣南西川府に帰順した湯立悉らはたびたび唐に来朝して麟徳殿で謁見受けた湯立悉は銀青光禄大夫帰化刺史に任ぜられ、ほかの首長たちにも官位与えられた。しかし、羌族首長たちは吐蕃ともひそかに通交しており、そのため「両面羌」と称された。

※この「『旧唐書』と『新唐書』の記述の概要」の解説は、「女国」の解説の一部です。
「『旧唐書』と『新唐書』の記述の概要」を含む「女国」の記事については、「女国」の概要を参照ください。

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