高句麗使節の漂流とは? わかりやすく解説

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高句麗使節の漂流

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/25 06:14 UTC 版)

吉備海部難波」の記事における「高句麗使節の漂流」の解説

『日本書紀』第十九によると、欽明天皇26年5月565年)に高麗高句麗)の人、頭唎耶陛(ずむりやへ)らが筑紫国にやってきて、山背国にとどめ置かれた、という。 また、31年4月570年)には、越国の人である江渟臣裙代(えぬ の おみ もしろ)が「高麗使節暴風と波に苦しんで迷って港が分からなくなり水に流されるままに漂流して、岸にたどりついています。道君(=地方豪族)が隠匿していますので、私が報告します」と奏上した。天皇自身の徳が遍く行き渡っているものと喜び、その月のうちに、東漢直糠児(やまとのあや の あたい あらこ)・葛城難波かずらき の あたい なにわ)を派遣して、その高句麗使節迎えた5月に膳臣傾子(かしわでおみ かたぶこ)を越に派遣して饗応した。7月使節近江国に来た。同月中に許勢臣(こせ の おみ さる)と吉士赤鳩(きし の あかはと)に命じて難波津から出発して、船を佐々波山(今の逢坂山)に引き上げさせて、使節近江北の山琵琶湖北岸)に迎えさせた。山背国相楽郡(さがらのこおり)に用意してあった館(むろつみ)に引き入れて東漢坂上直子麻呂(やまとのあや の さかのうえ の こまろ)・錦部首大石にしこり の おびと おおいし)を遣わして護衛させ、館で饗応させた。 同32年571年)、春が過ぎようとしていたが、使節天皇病気のためか、高句麗献上物書状奏上することができずにいた(同月新羅坂田耳子郎君派遣され任那滅んだ事情確認している)。任那日本府再建遺言して、天皇崩御した。 以下は、『書紀巻第二十の内容になる。 翌年5月572年)、即位したばかりの敏達天皇押坂彦人大兄皇子蘇我馬子大臣に、前年高句麗使節のことを尋ね使節によってもたらされ貢ぎ物検査記録して、都へ送らせた。さらに高句麗国書大臣授けられ3日かかって誰も解決できなかったのを、船史(ふねのふひと)の祖先である王辰爾おうじんに)のみが読み解いた6月高句麗大使副使たちに、越の道君が天皇だと詐称したために、国の調の一部渡してしまったことを責め国王報告する脅された。口封じのため、副使たちは大使を賊の仕業見せかけ殺害した接客役の東漢坂上直子麻呂は、翌朝取り調べ行ったが、副使たちは「大使天皇から妻を賜りましたが、大使受け入れなかったので、礼儀反すると私たち天皇のために殺しました」と嘘をついた。大使亡骸礼式をもって葬られた。 7月使節たちはかえっていった。 というような出来事があった上での、以下の記述である。

※この「高句麗使節の漂流」の解説は、「吉備海部難波」の解説の一部です。
「高句麗使節の漂流」を含む「吉備海部難波」の記事については、「吉備海部難波」の概要を参照ください。

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