高句麗使節の漂流
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『日本書紀』巻第十九によると、欽明天皇26年5月(565年)に高麗(高句麗)の人、頭霧唎耶陛(ずむりやへ)らが筑紫国にやってきて、山背国にとどめ置かれた、という。 また、同31年4月(570年)には、越国の人である江渟臣裙代(えぬ の おみ もしろ)が「高麗の使節が暴風と波に苦しんで迷って港が分からなくなり、水に流されるままに漂流して、岸にたどりついています。道君(=地方豪族)が隠匿していますので、私が報告します」と奏上した。天皇は自身の徳が遍く行き渡っているものと喜び、その月のうちに、東漢直糠児(やまとのあや の あたい あらこ)・葛城直難波(かずらき の あたい なにわ)を派遣して、その高句麗の使節を迎えた。 5月に膳臣傾子(かしわで の おみ かたぶこ)を越に派遣して、饗応した。7月に使節は近江国に来た。同月中に許勢臣猿(こせ の おみ さる)と吉士赤鳩(きし の あかはと)に命じて、難波津から出発して、船を佐々波山(今の逢坂山)に引き上げさせて、使節を近江の北の山(琵琶湖北岸)に迎えさせた。山背国の相楽郡(さがらのこおり)に用意してあった館(むろつみ)に引き入れて、東漢坂上直子麻呂(やまとのあや の さかのうえ の こまろ)・錦部首大石(にしこり の おびと おおいし)を遣わして護衛させ、館で饗応させた。 同32年(571年)、春が過ぎようとしていたが、使節は天皇の病気のためか、高句麗の献上物や書状を奏上することができずにいた(同月、新羅に坂田耳子郎君が派遣され、任那が滅んだ事情を確認している)。任那日本府再建を遺言して、天皇は崩御した。 以下は、『書紀』巻第二十の内容になる。 翌年5月(572年)、即位したばかりの敏達天皇は押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子大臣に、前年の高句麗の使節のことを尋ね、使節によってもたらされた貢ぎ物を検査・記録して、都へ送らせた。さらに高句麗の国書を大臣に授けられ、3日かかっても誰も解決できなかったのを、船史(ふねのふひと)の祖先である王辰爾(おうじんに)のみが読み解いた。 6月、高句麗の大使は副使たちに、越の道君が天皇だと詐称したために、国の調の一部を渡してしまったことを責め、国王に報告すると脅された。口封じのため、副使たちは大使を賊の仕業に見せかけて殺害した。接客役の東漢坂上直子麻呂は、翌朝取り調べを行ったが、副使たちは「大使は天皇から妻を賜りましたが、大使は受け入れなかったので、礼儀に反すると私たちが天皇のために殺しました」と嘘をついた。大使の亡骸は礼式をもって葬られた。 7月に使節たちはかえっていった。 というような出来事があった上での、以下の記述である。
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