中原進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 22:53 UTC 版)
349年4月、後趙では皇帝石虎の死をきっかけに、皇族同士が後継の座を争って殺し合うようになり、中原は大混乱に陥った。前燕の諸将はみなこれを好機として中原へ進出するよう説くと、慕容儁はこれに応じて出征の準備を始め、精鋭20万人余りを選抜し、戒厳令を布いて進出の機会を窺った。 同月、慕容恪は輔国将軍に抜擢され、輔義将軍陽騖・輔弼将軍慕容評と共に三輔と称され、来る中原攻略の大遠征軍の中核を任された。 350年2月、後趙の大将軍冉閔が皇帝石鑑や後趙の皇族を虐殺すると、自ら鄴で帝位に即いて国号を「大魏」と定めた(冉魏の建国)。2月、冉閔の乱により後趙の支配体制が崩壊すると、慕容儁は遂に計画を実行に移し、三軍を率いて征伐を決行した。慕容恪もこれに従軍し、鮮于亮と共に慕容儁本隊の前鋒となった。前燕軍はまず安楽を攻略すると、3月には幽州最大の都市である薊を攻め落とした。これにより幽州の郡県は大半が前燕に靡くようになった。さらに前燕軍は范陽を攻略したが、4月には魯口へ侵攻するも苦戦を強いられた為、征伐を一端中止して薊まで後退した。
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