中原進出に貢献
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348年11月、慕容皝がこの世を去り、嫡男である慕容儁が即位した。 349年4月、後趙では皇帝石虎の死をきっかけに、皇族同士の後継争いで内乱が勃発し、国内は大混乱に陥った。5月、前燕の群臣はみな後趙の混乱を中原奪取の絶好の機会であると上書し、慕容儁へ出兵を請うたが、慕容儁はなかなか決心がつかなかった。慕輿根は進み出て「中華の民は石氏の乱に苦しんでおり、主人を変えて烈火の急を救おうとしているのです。我らにとっては千載一遇の好機であり、これを逃してはなりません。武宣王(慕容廆)の時代より、賢人を招いて民を養い、農業を振興し兵を訓練して参りました。全ては今日の為です。天意ですら海内(中華の領内)を平定させようとしているのに、なぜ大王は天下を取ろうと考えないのですか」と説いた。五材将軍封奕・従事中郎黄泓もまた同様の進言をしたので、慕容儁は皆の意見が一つであるのを見て大いに笑い、遂に出征を決断した。 350年2月、後趙討伐の大遠征軍が興ると、慕輿根もこれに加わった。3月、前燕軍は魯口を守る鄧恒攻撃に向かったが、清梁まで進んだ所で、鄧恒配下の将軍鹿勃早が数千人を率いて夜襲を掛けてきた。慕容儁は慕輿根へ「敵の士気は旺盛だ。一旦退却すべきではないか」と尋ねた。慕輿根は顔つきを改めて「我等は多勢で敵方は無勢。真っ向勝負では敵わないので、万一の僥倖を願って夜襲を掛けたに過ぎません。我等は賊を討伐する為にここまで来て、今その賊が目の前にいるのです。何を躊躇なさることがあるのです!大王はただ横になって居られて下さい。臣等が大王の為に敵を撃破して見せましょう!」と返した。慕容儁はこれでも不安を拭う事が出来ず、内史李洪を伴って宿衛を出ると、高い丘の上に避難した。慕輿根は側近の精鋭数百人を率いると、その中心に立って本営の目前で鹿勃早を迎え撃った。李洪もまた騎兵隊を整えてから加勢すると、鹿勃早は遂に敗れて逃げ出した。慕輿根らは40里余りに渡って追撃を掛け、鹿勃早は体一つで落ち延び、数千人の兵はほぼ全滅した。功績により殿中将軍に昇進した。 352年4月、慕容評と侯龕が精鋭騎兵1万を引き連れて冉魏の都である鄴へ侵攻したが、守将の蒋幹はこれを阻んだ。5月、慕容儁の命により、慕輿根は広威将軍慕容軍・右司馬皇甫真らと共に騎兵歩兵併せて2万を率いて加勢に向かい、共に鄴を攻めた。8月、前燕軍は鄴を陥落させた。功績により広威将軍に昇進した。 10月、中山の蘇林が無極にて挙兵し、天子を自称すると、慕容恪が討伐に当たった。慕容儁の命により、慕輿根は加勢に向かって共に蘇林軍を攻撃すると、これを斬り殺した。やがて領軍将軍に昇進した。 358年2月、慕容評は前燕に背いた上党郡太守馮鴦討伐に当たったが、中々勝利を収められずにいた。3月、慕容儁の命により、慕輿根は将兵を率いて加勢に向かい、慕容評軍と合流した。慕輿根は急攻しようと考えると、慕容評は「馮鴦は砦を固めているから、その心を緩めるべきであろう」と諫めた。だが、慕輿根は「そうではありません。公(慕容評)は城下に至って月を経ておりますが、未だに一度も交戦しておりません。賊は我が国家の力がこの程度だと考え、万一の僥倖を願っております。今、我の兵がやってきた事で形勢が変わり、賊は恐れてみな離心を生じ、計を定められずにおります。これを攻めれば必ずや勝利を得られる事でしょう」と反論すると、急攻を決行した。予想通り馮鴦は配下との間に互いに疑いを生じた末、野王へ逃走して呂護を頼り、その兵は皆降伏した。
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