中原進出を決断
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/31 22:40 UTC 版)
5月、後趙では皇帝石虎の死をきっかけに、皇族同士が後継の座を争って殺し合うようになり、中原は大混乱に陥った。 弟の平狄将軍慕容覇(後の慕容垂)は慕容儁へ「石虎の凶暴残虐な様は極まっており、天すらもこれを見捨てました。僅かに残った子孫も、魚の如く互いの肉を食い合っております。今、中国は倒懸(逆さまに吊るされる事)する程の苦しみを味わっており、みな仁恤(憐れんで情けを掛ける事)を待ち望んでおります。もし大軍で一撃を与えれば、その勢いで必ずや征伐出来るでしょう」と上書し、今こそ後趙征伐の絶好の機会であると訴えた。さらに北平郡太守孫興もまた「石氏は大乱に陥っており、今こそ中原奪取の好機かと」と上表した。だが、慕容儁はまだ慕容皝の喪中であった事から、これを認めなかった。 慕容覇は任地である徒河を離れて自ら龍城を詣でると、再び慕容儁へ「得難くして失い易いのが時というものです。万一石氏が衰弱から再興したならば、あるいは他の英雄がこれに取って代わったならば、ただ大利を逃すのみならず、後患が怖ろしくなりましょう」と訴え、改めて出兵を請うた。これに慕容儁は「鄴中で乱が起こったといえども、鄧恒が安楽(現在の北京市順義区北西部)に拠っており、その兵は強く兵糧も充足している(鄧恒は後趙の征東将軍であり、前燕との国境の最前線である安楽を守備していた)。今もし趙を討とうとしても、東道は通れまい。そうなれば盧龍を通るしかないが、盧龍山は険しく道が狭い。虜(蛮族の事。ここでは後趙を指す)どもに高所を取られてしまえば、全軍の煩いとなる。これをどう考える」と問うと、慕容覇は「鄧恒が石氏の為に我らを阻もうとも、その将兵は郷里へ帰りたがっております。大軍で臨んだならば自ずと瓦解する事でしょう。臣(慕容覇)は殿下(慕容儁)の為に前駆となって東へ進み、徒河から密かに令支(現在の河北省唐山市遷安市南西部)まで赴き、その不意を衝きます。これを聞けば奴らは必ずや震駭し、上は城門を閉じて籠城することも出来ず、下は城を棄てて逃潰することしょう。どうして我を阻むことなど出来ましょう!そうすれば殿下は安全に進軍することが出来、難を留めることもないでしょう」と答えた。 慕容儁はなおも決断できなかったので、国相である五材将軍封奕を召喚してこの事を尋ねると、封奕は「用兵の道において、敵が強ければ智を用い、敵が弱ければ勢を用います。これにより、大をもって小を呑むのは狼が豚を食べるが如しであり、治をもって乱を終わらせるのは太陽が雪を融かすが如く容易な事であります。大王(前燕の君主)は代々徳を積んで仁を累ね、兵士を訓練して強化してこられました。石虎は暴逆を極め、死しても誰からも悲しまれず、子孫は国を争い、上も下も乖乱しております。中国の民は泥にまみれ火に焼かれるような苦しみを味わっており、首を長くして苦境からの脱却を待ち望んでおります。大王がもし兵を挙げて南へ進み、まず薊城を取り、次いで鄴都を方針に定めれば、その威徳は宣耀され、遺民は懐撫される事でしょう。そうすれば、人々は必ずや老若を問わずに大王を迎え入れ。凶党はその旗を見ただけで潰散します。どうして破れない事がありましょうか!」と述べ、慕容垂の考えに同意した。 従事中郎黄泓もまた「今、太白が天を経て、その光陰が北へ全て集っております。これは天下の主が代わり、陰国(夷狄の国)が天命を受けるという事を示しております。これは必然の験です。どうか速やかに出師し、天意に従われますよう」と述べ、さらに折衝将軍慕輿根は「中華の民は石氏の乱に苦しんでおり、主人を変えて烈火の急を救おうとしているのです。我らにとっては千載一遇の好機であり、これを逃してはなりません。武宣王(慕容廆)の時代より、賢人を招いて民を養い、農業を振興し兵を訓練して参りました。全ては今日の為です。天意ですら海内(中華の領内)を平定させようとしているのに、なぜ大王は天下を取ろうと考えないのですか!」と訴えた。 慕容儁は群臣の意見が既に一つに纏まっており、自分だけが躊躇しているのを知って大いに笑い、遂に出征を決断した。 そして、弟の慕容恪を輔国将軍に、叔父の慕容評を輔弼将軍に、左長史陽騖を輔義将軍にそれぞれ任じると、彼らを三輔と称し、来る中原攻略の大遠征軍の中核とした。また、慕容覇を前鋒都督・建鋒将軍に任じ、出陣に際しては軍の先鋒を委ねんとした。また、精鋭20万人余りを選抜し、戒厳令を布いて進出の機会を窺った。 12月、前涼へ使者を派遣し、協力して後趙を討伐する事を前涼君主張重華へ持ち掛け、盟約を交わした(前燕も前涼も東晋の藩国である)。 同月、高句麗の故国原王は、かつて前燕の東夷護軍であり、慕容皝の時代に高句麗へ亡命していた宋晃を前燕に送還した。慕容儁は宋晃を罪には問わず、名を宋活と改めさせた上で中尉に任じた。
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