百済王族語
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百済王族語話者集団はどこから来たのか。漢城百済は、3世紀末から4世紀初頭に漢城地域を中心に成立しており、その建国神話を高句麗と扶余出自に求めている。扶余建国神話の初出は『論衡』にあり、高句麗が扶余建国神話を取り入れたのも、瀬間正行が指摘するように、「扶余支配の正当性の根拠」を示すためであった可能性があり、百済が更にこれを取り入れた蓋然性は極めて高い。 『三国史記』に、朱蒙が卒本扶余に至った際に越郡の娘を得て二子をもうけたとする記載がある。 或云:「朱蒙到卒本,娶越郡女,生二子。」 — 三国史記、巻二十三 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。三國史記/卷23#温祚王 「二子」とは、温祚と沸流のことであり、井上秀雄は「越郡」について、「中国浙江省紹興地方か」と注記している。すなわち、浙江省紹興の娘が、遼寧省丹東市桓仁県に来て、朱蒙との間に、百済の始祖となる温祚と沸流を生む。拝根興および葛継勇は西安出土の在唐百済人墓誌の釈文を載せる研究であるが、亡命百済貴族のなかに「楚国琅邪」を籍貫とする人物もみられる。こうした山東半島から江南に及ぶ中国沿海部と百済の関係から考えて、百済王族語は、中国沿海から東渡した集団の言語であり、その意味では、山東、遼東を経て朝鮮半島に到達したと考えられる濊倭祖語話者集団と同じ行跡を辿った集団の言語である可能性がある。
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