百済王霊祠廟由緒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 22:56 UTC 版)
馬部は、椿井政隆は1行あたり12~15文字程度の比較的大ぶりな明朝体の文字をしばしば用いるとして、百済王神社の「百済王霊祠廟由緒」の写真を紹介している。中村直勝は椿井文書は明朝体で記されていると指摘している。百済王神社は百済王族の宗廟で、三松家は百済王の嫡流だという。民俗学者の中山太郎は、百済王神社を訪れて神官に頼んで見せてもらった縁起について、先代の神官がこの地方で有名な系図書きの木津の阿部さんに頼んで、30両という金を出したものだそうだが、更に信用のできないものであった、と記している。木津は木津川左岸の旧山城国相楽郡木津村であり、木津村とは木津川を挟んで対岸となる椿井は、木津川右岸の旧相楽郡椿井村である。椿井政隆は山城国相楽郡椿井村の人である(馬部 2020, p. ⅱ)。 「両」は江戸時代の金貨の貨幣単位とされるが、明治元年(1886年)5月発行の政府紙幣「太政官札」は同2年7月までに4800万両が全国に散布され、明治4年(1871年)の新貨条例で通貨単位が両から円へ変更された後も、明治12年(1879年)11月まで新紙幣や公債証券と交換、回収されるまで全国で流通した。 中村直勝は、明治30年(1897年)前後に木津の椿井家、あるいは明治35年(1902年)前後に木津の今井家で、偽文書が製造販売されたと記している。藤本孝一は「幕末に椿井家が田辺町に移り住んだ」と記している。東浅井郡志は「椿井政隆……木津の今井氏と姻親の関係あり」と記している。
※この「百済王霊祠廟由緒」の解説は、「椿井文書」の解説の一部です。
「百済王霊祠廟由緒」を含む「椿井文書」の記事については、「椿井文書」の概要を参照ください。
- 百済王霊祠廟由緒のページへのリンク