頓莫賀達干(トン・バガ・タルカン)の政変
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 03:30 UTC 版)
「回鶻」の記事における「頓莫賀達干(トン・バガ・タルカン)の政変」の解説
大暦13年(778年)になると、遂に牟羽可汗自身も回紇軍を率いて唐に侵攻するようになり、今まで良好であった唐との関係が一気に崩れた。大暦14年(779年)、代宗が崩御して徳宗(在位:780年 - 805年)が即位すると、ソグド人の官僚はその喪中を狙って唐に侵攻するよう牟羽可汗に促した。それを聞いた牟羽可汗はふたたび唐に攻め込もうとしたが、それに反対だった宰相の頓莫賀達干(トン・バガ・タルカン)が牟羽可汗とソグド人官僚を殺害し、代わりに頓莫賀達干が立って合骨咄禄毘伽可汗(アルプ・クトゥルグ・ビルゲ・カガン)となった。合骨咄禄毘伽可汗はすぐに酋長の建達干を唐へ入朝させて関係を修復したので、唐より武義成功可汗(在位:779年 - 789年)の称号を賜った。また、武義成功可汗は牟羽可汗が信仰していたマニ教を弾圧し、ソグド人たちにも圧力をかけた。貞元3年(787年)8月、武義成功可汗は唐との関係を改善するために唐に求婚し、咸安公主を娶った。その後も両国の平和が保たれ、武義成功可汗は国号を回紇から回鶻に変えるとともに、再び唐から長寿天親可汗の称号を賜った。
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