頓挫した遷都
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 16:03 UTC 版)
日本 怨霊に潰された都 奈良時代末にあたる延暦3年(784年)、桓武天皇の勅に従って平城京より遷都された長岡京は、全うに準備・造営された都であったが、政変に加えて氾濫や疫病等の変事までもが相次いだことにより、当時の世界観では重大な政治懸案の一つであった「怨霊」から逃れるため、より実務的には「祟りの原因は天皇に徳が無く天子の資格が無いことにある」との評価が民衆に広まって世の乱れる元となることを怖れて、わずか9年で廃都を余儀なくされ、平安京への遷都の運びとなった。9年という期間は十分に長いとも言えるが、政治的意図は頓挫しており、変事と悪霊への怖れによって挫折に追い込まれた都市計画の代表的一例である。もっとも、天武天皇系の政権を支えてきた貴族や寺院の勢力が集まる大和国から脱して未開同然の山城国に自らが属する天智天皇系の都を造るという意図は、長岡京が平安京に置き換わろうとも問題ではなく、易学的および政治的の意図から外れたとも言えないため、桓武天皇の志という意味では頓挫していない。 平城還都の詔 平安時代前期に当たる大同4年(810年)、時の為政者・嵯峨天皇は、藤原薬子らの介入によって平城宮に移った平城上皇と対立し、二所朝廷という憂いべき事態(最高国家権威が並立する政治情勢)に陥ったが、上皇が平城還都を勅令するに及んで、その動きをいち早く押さえ込んだ。これが薬子の変の始まりであり、「平安京より遷都すべからず」との桓武天皇の勅を破って平城京への還都を画策する勢力にとっては最後の抵抗となった。 受け容れられなかった都 平安時代末期に当たる治承4年(1180年)、日宋貿易に重きを置く平氏政権が権勢を振るうなか、内陸に位置して海運を活かせない平安京から瀬戸内海に開けた福原京への遷都が平清盛によって断行されたが、院政を敷いていた高倉上皇は平安京の放棄ばかりは頑なに認めようとせず、行幸の拒絶等をもって在京の貴族と共に抵抗した。そうこうしているうちに間もなくして源氏の挙兵(反乱)があると、これを鎮めることの重要性に鑑みて清盛自らが旧都に立ち戻る。時の安徳帝内裏は須磨離宮のある神戸市須磨区に、神戸市教育委員会調べで存在するものの、強引な断行を押し進めていた清盛が病死した事によって一年を迎えず平安京へ還都。半ば頓挫という結果に終わった。 大韓民国(韓国) ソウルは軍事境界線に近すぎるため、過去に何度か首都移転構想があったが、いずれも頓挫している。2000年代には盧武鉉大統領が忠清南道燕岐郡への移転を目指したものの、2004年10月21日に憲法裁判所が「憲法には首都に関する規定はないが、ソウルが600年以上にわたって首都であり、移転は改憲同様の手続きを要する」との見解を出したため、これを断念している。首都移転を当て込んだ不動産会社による土地買い占めも失敗に終わった。しかし2004年7月5日、忠清南道の燕岐郡と公州市に跨る地域に一部の行政機関のみ移転することが内定した。紆余曲折を経て、最終的にはいくつかの周辺自治体を集約して、ニュータウンである世宗特別自治市が2012年7月1日に発足した。また、1970年代には、朴正煕大統領が大田への首都移転を計画していた。 詳細は「世宗特別自治市」を参照 中華民国(現在の台湾)
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