飛鳥浄御原宮跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 11:28 UTC 版)
「エビノコ郭」は、小字「エビノコ」にあることに由来している。この一郭には、29.2×15.3メートルで四面庇付きの大型の掘立柱建物が検出されている。これが通称「エビノコ大殿」であり、後世の大極殿の原型との見解が多い。しかし、飛鳥浄御原宮の大極殿では特別な国家的儀式が開催された記録が無く、大極殿は飛鳥浄御原宮の時代では存在せず、藤原宮になり成立したとする意見もある。 大殿の周辺は南北100メートル以上、東西約100メートルの掘立柱の塀で囲まれている。外郭の外側からは「辛巳年」(かのとみ)「大津皇子」「大来」等と書かれた墨書木簡が出土している。「辛巳年」は681年、「大来」は大津皇子の姉の大来(伯)皇女の名と推定できること等から、この最上層の遺構は天武天皇の飛鳥浄御原宮にともなうものであると考えられる。 すなわち、天皇の居住空間に相当する区画は東西158メートル、南北197メートルの後期岡本宮をそのまま使用したものであり、その南東の東西94メートル、南北55メートルの区域は儀礼空間として用いられ、そこに「エビノコ郭」が新たに設けられた。さらにこれら宮殿周囲を役所や庭園などの関連施設が取り囲み、役所の一部は周辺地域へも広がるという構造が周辺の状況や文献から推定されている。
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