庚寅の乱・癸巳の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 15:04 UTC 版)
1170年8月、毅宗の普賢院参詣をきっかけに武臣らの不満が暴発。李義方(イ・ウイバン)・鄭仲夫(チョン・チュンブ)ら武臣は多数の文臣を殺害し、毅宗と王太子を廃して、毅宗の弟である明宗(ミョンジョン)を擁立した。この事件をその年の干支から庚寅の乱という。この事件で、実名が判明する人物だけで46名、その他40名以上の文臣が殺害されている。 1173年には、文臣である東北面兵馬使金甫当(キム・ポダン)が毅宗の復位をねらい、武臣政権打倒を目指して決起する。武臣政権側はこれを文臣をさらに殲滅する好機と捉え、再びクーデターを起こして前国王毅宗や文臣らを捕殺した。この一連の事件を癸巳の乱と呼ぶ。この二つの事件によって武臣たちの権力基盤は強化され、以後100年にわたる武臣政権が続くこととなる。 なお、庚寅・癸巳の乱を文臣・武臣の対立から発生した事件とする上記の通説に対し、毅宗時期における王と恭睿太后任氏(毅宗の生母)や王室・名門層との対立を重視し、宮廷内の明宗擁立グループが文武臣の対立を利用して起こしたクーデターとして、武臣政権誕生への画期と見なさない説(長井丈夫)もある。
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