古文書での言及
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古文書に「辻堂」という言葉が登場するのは、「九州みちの記」(1594年・文禄3年)であるが、この「九州みちの記」には板敷であるということ以外に構造的特徴には言及がなく所謂「辻堂」を指したものか不明である。 「元禄13年の御検地水帳」(1700年)は、福山藩が水野家支配を終えて一時的に天領になったときに実施された検地の記録で、辻堂の場所と規模がすべて記載されている。 水野氏に代わって新藩主として入部した阿部氏が各村落に提出させた差出帳(1711年・宝永8年)には、「四つ堂」という言葉が使われ、辻堂の数が記載されている。 1746年(延享3年)頃に萩藩の絵図方の有馬喜惣太が中心になって作成したとされる「中国行程記」は、萩藩の参勤交代の道中の出来事を描いた道中絵図だが、西国街道を中心に街道沿いの辻堂が描かれている。 1740年(元文5年)頃から30年間に渡って福山藩士の宮原直倁(1702-1776年)が執筆した「備陽六郡志」(びようろくぐんし)にも辻堂の数が書かれている。福山市の庄屋・馬屋原重帯(1762-1836年)が著した備後全域の地誌「西備名区」(1804年・享和4年)にも言及がある。 江戸後期の漢詩人の菅茶山(1748-1827年)が残した地誌「福山志料」(1809年・文化6年)には「憩亭」として紹介され、「辻堂は他国では稀だが備後国だけに多く見られ福山藩の領内に600棟ほど存在する」と記載され、具体的な場所にも言及があるが、その数は1700年(元禄13年)の御検地水帳よりも増えている。 「備後郡村誌」(1818年・文化15年)は、1711年(宝永8年)とその100年後の1815 - 1816年の差出帳をまとめた古文書で、これにも辻堂の数などが記載されている。
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古文書での言及
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「大龍院 (名古屋市)」の記事における「古文書での言及」の解説
郡村徇行記の光音寺村の条において以下の記述がある。 秋場宮界内三畝御除地、一畝廿三歩村除、修験大龍院宰之、此秋場ノ像ハ、応永年中ノ比、濃州高洲清宝院天元ト云修験、遠州秋葉山ヘ七十七度参詣ノ上授リ、宝永六丑年霊夢ニ因テ此地ニ安置スト也
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古文書での言及
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「盛泉寺 (愛知県蟹江町)」の記事における「古文書での言及」の解説
郡村徇行記の蟹江本町村の条において以下の記述がある。 府志曰、在蟹江本町村、一向宗東派直参。覚書ニ寺内二反四畝九歩備前検除。当寺書上ニ此寺ハ蓮如実子蓮芸代明応六巳年開基也、初ハ蟹江新田高ノ内下市場ト云所ニアリシカ、慶長年中受念代コヽニ移スト也
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