奈良期 - 平安中期とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 奈良期 - 平安中期の意味・解説 

奈良期 - 平安中期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 17:35 UTC 版)

皇位継承」の記事における「奈良期 - 平安中期」の解説

奈良時代入った後、文武天皇皇位継承者である首皇子(後の聖武天皇)が成人する前に没したため、元明天皇元正天皇2人女帝皇位継承した聖武天皇は、皇位継承すべき男子残せず、女性孝謙天皇が後を継いだその後藤原仲麻呂の強い推挙により、天武天皇の孫の淳仁天皇立ったが、自らを「聖武天皇後継者」とみなした淳仁天皇『続日本紀』天平宝字3年6月庚戌条)と天皇自己の「臣」とみなす孝謙上皇『続日本紀』天平宝字8年10月壬申条)の対立は、上皇が僧の道鏡信任した問題巡って一気悪化する。やがて、藤原仲麻呂の乱連座して淳仁天皇廃帝となり、孝謙天皇再度即位重祚)して、称徳天皇となったこの間、他の皇族皇位狙ったが、その都度謀叛と見なされ、結果適当な皇位継承者不在となってしまった。そのため、仏教深く帰依していた称徳天皇は、道鏡皇位就けることを企図した(宇佐八幡宮神託事件)が失敗し後継者決めないまま称徳天皇崩御し天武皇統断絶することとなった天武天皇から称徳天皇に至るまでの皇位継承ルールは(継承すべき者が未成人などの場合には女帝即位することもあったが)、原則として直系継承であった(ただし、持統天皇天智天皇直系みなした場合草壁皇子その子孫天智天皇直系子孫とも解せる)。このルールは、激し皇位継承紛争未然防止して天智皇統復活阻止しようとした代わりに皇位継承候補者限定してしまったため、却って皇統断絶結果的に天智皇統復活)という結果を招くこととなった称徳天皇崩御による皇統断絶危機に際して大臣らは協議行いその結果天智天皇の孫に当たる年配の光仁天皇皇位継承することとなった。この事例は、臣下協議による皇位継承先例となったまた、この時には2つの点で継体天皇先例強く意識されていたようである。一つは必ず皇胤である事、もう一つ先代天皇との婚姻関係有する光仁天皇称徳天皇異母妹の夫)ことであった光仁天皇天武皇統断絶教訓として、息子桓武天皇後継者とし、その弟の早良親王桓武皇太弟とした。これにより、天智天皇天武天皇以来直系皇位継承放棄され大兄制が(一時的とは言え事実上復活したと見ることも可能である。だが、早良親王謀叛疑い藤原種継暗殺事件)によりこれを廃し早良親王怒りあらわに絶食死を遂げる事になる。この壮絶な早良親王の死はその後桓武天皇苦しめ崇道天皇の号が贈られたが、桓武天皇に始まる平安朝長く早良親王怨霊恐れ苦しむこととなる。桓武天皇は、多く皇子もうけた桓武天皇の後は、桓武天皇長子平城天皇皇位継承し、その遺志に従う形で病弱であった平城天皇次にはその弟の神野親王(後の嵯峨天皇)が皇太弟立った。これに不満を抱いた平城天皇大兄である自分直系皇位継承することを企図して、一旦、嵯峨天皇譲位し自身の子高岳親王皇太子とした。この措置今度嵯峨天皇反発し平城天皇嵯峨天皇武力衝突起こり結果嵯峨天皇側が勝利した薬子の変)。これによって平城天皇直系皇位可能性なくなったものの、嵯峨天皇内外批判恐れて自分実子擁立する事に躊躇し、弟の大伴親王(後の淳和天皇)を皇太弟とした。嵯峨天皇皇位継承紛争を防ぐために、それぞれの直系互いに皇位就ける迭立てつりつ)を採用することとし実際嵯峨天皇 - 淳和天皇 - 仁明天皇嵯峨天皇の子)と皇位継承され、仁明天皇の次も恒貞親王淳和天皇の子、母は嵯峨天皇皇女)が皇太子立てられていた。これに対して淳和天皇は却って紛争の原因となると危惧抱いており、嵯峨天皇仁明天皇次にはその皇子立てるべきであると忠告したものの、受け入れられなかった。しかし、淳和嵯峨上皇相次ぐ崩御直後恒貞親王廃太子皇太子廃すること)とする事件承和の変)が起こり皇位継承嵯峨天皇 - 仁明天皇系統統一されることとなった。この事件皇統統一狙った仁明天皇が、藤原北家協力得て起こしたとする説もある。かくして光仁天皇以来天智皇統天武皇統教訓にして取り入れた兄弟継承相続大兄制の実質復活)は、藤原種継暗殺事件から承和の変に至る皇位継承を巡る内紛連鎖招来終わった仁明天皇の後、文徳天皇 - 清和天皇 - 陽成天皇直系による皇位継承がほぼ順調に行われたが、陽成天皇内裏重大事件誤って殺人犯したとする説が有力)を起こし退位追い込まれてしまい、再び直系継承の下で皇統断絶危機訪れることになった。このときは、有力候補がおらず、廃太子となった恒貞親王嵯峨天皇の子である源融らが候補となったが、最終的に称徳天皇崩御時の先例をとって、仁明天皇の子年配の光孝天皇即位して皇位継いだ光孝天皇は、自身皇子全て臣籍降下させており、崩御直前になって後継者立てていなかったため、緊急措置として急遽光孝天皇の子源定省立太子され、宇多天皇となった一度臣籍下った者が皇位に就くのは、日本皇位継承史の中でも極めて異例であるが、天皇の子身分決定天皇専権事項である(臣籍降ろした実子皇族に戻す事も許される)として押し切ったのである。しかし、宇多天皇その子醍醐天皇積極的な政治展開し天皇親政理想型築いた。ただし、宇多天皇退位後陽成系の親王対抗するために兄弟継承行わせる意思があり、直系継承維持を図る醍醐天皇藤原時平と謀って宇多天皇派と目され菅原道真大宰府流したとする見解存在する昌泰の変)。 文徳天皇の頃から藤原北家天皇外戚として摂政関白に就く摂関政治ある程度形成されていたが、醍醐天皇の子である朱雀天皇村上天皇兄弟の頃に、摂関政治確立することとなる。摂関家内部複数摂関候補者登場することとなり、それぞれの候補者別個に天皇に娘を入内させて子を儲けたため、皇位継承摂関家パワーバランス左右されることとなった。以上のような状況から、皇位継承候補者複数存在することとなり、再び皇統分裂 - 迭立 - が見られるようになった。しかし、藤原道長摂関家統一したことに伴い皇統統一されることになる。その後迭立への動き見られたが、王朝内部皇統統一する意思働き続けた

※この「奈良期 - 平安中期」の解説は、「皇位継承」の解説の一部です。
「奈良期 - 平安中期」を含む「皇位継承」の記事については、「皇位継承」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「奈良期 - 平安中期」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「奈良期 - 平安中期」の関連用語

奈良期 - 平安中期のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



奈良期 - 平安中期のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの皇位継承 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS