創建から中世まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/01 06:41 UTC 版)
『倭姫命世記』によると、佐美長神社の創建は垂仁天皇27年9月である(後述)。また佐美長神社は『延喜式神名帳』に記載されている「同島坐神乎多乃御子神社」に比定される。一方、中川経雅『大神宮儀式解』では「同島坐神乎多乃御子神社」が佐美長神社である証拠はなく、信じがたいと記している。『皇太神宮儀式帳』では、佐美長神社の祭儀は伊雑宮に従って行うと記載されていることから、平安時代以前から伊雑宮の付属社であったことが窺える。同書の「伊雑宮祭供奉行事」の欄に、後世の加筆であると考えられるものの、「佐美長神社一處、御前四社」の記述があり、佐美長御前神社の存在も確認できる。ただし佐美長御前神社の創建は不明である。 同社を奉斎した氏族は島津国造族と考えられ、同族の二方国造と同じく大歳神を祀ることから、海神族の特徴が顕著に見られる。 中世の初期は内宮庁宣が祝職を任命し、祭祀にあたらせたが、中世末期以後、内宮の統制が及びがたくなり、大歳神社の社殿は内宮を模して屋根を萱葺とし、金や銅の装飾金物を施し、高欄・御階も内宮を模したものとなった。
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創建から中世まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 00:18 UTC 版)
志等美・大河内神社の創建は不詳であるが、延暦23年(804年)の『止由気宮儀式帳』には既に記載があり、少なくとも古代には祭祀を受けていたことが分かる。『類聚神祇本源』によれば、大治3年(1128年)に志等美・大河内・打懸の3社の神階が正五位から従四位に昇級したという。 志等美・大河内・打懸の3社は、戦国時代になると建て替えが行われなくなり荒れるに任せていたが、後代に地元の住民が産土神として崇めるようになった。産土神となったこの神社は、永正16年9月(ユリウス暦:1519年9月)の記録では「二俣社」、大永6年12月(ユリウス暦:1527年1月)の記録では「二俣八王子社」、天文6年11月(ユリウス暦:1537年12月)の記録では「牛頭社」と記された。
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