創建から焼失まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/21 19:07 UTC 版)
玉名市築地の蓮華院誕生寺の地には、中世には浄光寺という寺院が建てられていた。この中世浄光寺については、田邉哲夫の論考があり、現在のところこれが最も信頼できる研究であり、本稿もこの研究に多くを依っている。肥後國誌によると、築地村の関白屋敷や浄光寺蓮華院跡の項に、平重盛が浄光寺を建立し、さらに父母の滅罪のため2基の五輪塔、南大門、尼寺妙性寺も建立したとある。平重盛は清盛の嫡男で、保延4年(1138年)生れで治承3年(1179年)に42歳で没している。肥後國誌どおりであれば、平安末期の建立となるが、証拠になる当時の文書は何も残されていない。 現存する最も古い資料は、鎌倉時代の永仁6年(1298年)に書かれた東妙寺文書である。佐賀県東妙寺は勅願寺で鎌倉時代の創建であるが、東妙寺の唯円が殺生禁断の宣旨を願い出た文書の中に「肥後国浄光寺は沙門惠空による私建立の寺院なり。勅願に非ずと雖も、已に宣旨を下され、殺生を禁断せられ畢んぬ。」とある。つまり、永仁6年には玉名の浄光寺は既に存在していたということである。鎌倉時代の東妙寺文書に惠空が私的に建立したと書かれている肥後国浄光寺と、江戸時代の肥後國誌に平重盛が建立したと書かれている浄光寺蓮華院が、同じ寺かどうかは明らかではない。しかし、寺名は同じであることから、重盛建立の浄光寺を、惠空が継承したことも推測できる。いずれにせよ、浄光寺が平安時代末期から鎌倉時代初期の創建であることは推測できる。 浄光寺の名は、奈良・西大寺の鎌倉時代の古文書にも出ている。ひとつは「西大寺諸国末寺帳」の永享8年(1436年)以降の記録に、「築地浄光寺」の文字が見られる。また「西大寺坊々寄宿諸末寺帳」の中にも同じく寺名が書かれており、さらに「西大寺本末寺衆首交名」の中の「西大寺光明真言結縁過去帳」にも、正応3年(1290年)から文明10年(1478年)まで肥後浄光寺僧侶のリストが書かれている。このことから、鎌倉から室町時代にかけて浄光寺が、存続していたことは明らかである。 中世の浄光寺については、昭和30年代に行なわれた、現在の蓮華院誕生寺の本堂建設に伴う発掘調査で、懸け仏、陶器、瓦などが出土している。おそらく浄光寺の本堂はこの附近だったと思われる。現在これら出土遺物は蓮華院誕生寺に保管・展示されており、平成20年玉名市指定文化財に指定されている。 戦国時代になると、激動する戦乱の世となり、浄光寺を取り巻く環境も大きく変わったと思われる。江戸時代には浄光寺は存在していないことから、焼失したとしか考えられないが、これに関する直接の歴史資料は特にない。しかし天正9年(1581年)、龍造寺政家が小代親伝に大野別府二百町を与えていることから、その年に龍造寺氏の攻撃に遭い、大野氏が滅亡し、その庇護にあった浄光寺も焼失したとされる。これにより、平安時代末期ないし鎌倉時代初期に創建され400年前後存続してきた浄光寺も灰燼に帰し、以後は放置され山野となるに任せ、江戸時代の肥後國誌に記されるとおり、築地、南大門、蓮華などの地名、2基の五輪塔、釈迦堂と呼ばれる小堂だけが残された。浄光寺の北東隣には、蓮華という微小地名が残り、これは蓮華院という塔頭寺院の存在を暗示する。江戸時代の肥後國誌には浄光寺蓮華院と書かれているが、中世文書には蓮華院という名は出てこないことから、浄光寺と塔頭寺院の蓮華院を混同して使われたものと思われる。
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