創建と伽藍整備とは? わかりやすく解説

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創建と伽藍整備

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 00:56 UTC 版)

寛永寺」の記事における「創建と伽藍整備」の解説

江戸にあった徳川家菩提寺のうち、増上寺中世から存在した寺院であったが、寛永寺天海開山とし、徳川家により新たに建立され寺院である。徳川家康秀忠家光3代将軍帰依していた天台宗の僧・天海によって、江戸城鬼門方角をと考えそのこと知った秀忠は、元和8年1622年)、現在の上野公園の地を天海与えた当時この地には伊勢津藩主・藤堂高虎弘前藩主・津軽信枚越後村上藩主・堀直寄の3大名下屋敷があったが、それらを収公して寺地にあてたものである秀忠隠居後寛永2年1625年)、3代将軍徳川家光時に今の東京国立博物館敷地本坊貫主の住坊)が建立された。この年寛永寺創立年とされている。 創建当時年号をとって「寛永寺」とすることを許され京の都鬼門北東)を守る比叡山にならい、「東の比叡山」という意味で山号を「東叡山」とした。 寛永寺伽藍延暦寺様式準じて造営された。寛永4年1627年)には法華堂常行堂多宝塔輪蔵東照宮などが、寛永8年1631年)には清水観音堂五重塔などが建立さ(1698年)、5代将軍徳川綱吉の時である。根本中堂建設元禄10年7月1日柳沢吉保が惣奉行拝命開始され元禄11年8月11日上棟式が行われ落成した位置関係では、根本中堂護国寺根本中堂浅草寺を結ぶ線は一直線につながる。また、根本中堂日光表参道延長線上に存在している。

※この「創建と伽藍整備」の解説は、「寛永寺」の解説の一部です。
「創建と伽藍整備」を含む「寛永寺」の記事については、「寛永寺」の概要を参照ください。

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