一宮争いとは? わかりやすく解説

一宮争い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/12 13:46 UTC 版)

鳥海山大物忌神社」の記事における「一宮争い」の解説

吹浦岡の論争 吹浦信徒岡の信徒が行っていたような鳥海山中での修行行わず山上祀られている鳥海山大権現を、月山大権現とともにふもとに勧請し両所宮として祀り神宮寺行事を行うなどしていた。吹浦からの登拝は行っていたものの、山頂権現堂には関与しなかったため、岡の信徒比べる勢力的弱かった岡の宗徒社人山上鳥海山大権現学頭別当称し直接山上奉仕しており、この考え方違いお互いに反目する原因となっていたが、宗徒吹浦からの登山者差し止めたことから両者論争となり、承応3年1654年)ついに庄内藩江戸寺社奉行訴え出された。幕府検使臨検の後、明暦元年1655年)に次の判決出た訴えのあった守札書付について、吹浦鳥海山と書いていた証拠が無いので両所と書き岡は大堂のある松岳と書いていた証拠があるので松岳と書くこと。 吹浦からの登山者岡は差し止めないこと。 この裁断の後、山上直接奉仕しているのは宗徒であると言う認識確定的なものとなり、山頂社殿建替や嶺境争い等の山頂関連した論争吹浦感知しない状態となってしまった。 岡、矢島御堂建替論争 修験道には紀伊熊野始まった順峰と逆峰の2つ法式があるが、鳥海山においては岡が順峰、矢島滝沢が逆峰を称し古来より順逆両部勤行霊山として修行が行われていた。それにもかかわらず矢島滝沢の間に逆峰名称の論争起き、また岡と矢島の間には順逆論争発生した。この状況により滝沢岡の援助得て逆峰院主矢島から奪ったが、延宝6年1678年矢島論争のすえ逆峰院主取り戻した。これにより矢島滝沢の逆峰院主論争終結し、また岡と矢島順逆お互い法式を相犯さない確認した。しかし元禄14年1701年山頂社殿建替えの話が上がると、矢島は逆峰側で建替えるのが至当であると、本山である三宝院総代3名を送って陳訴した。これに対し三宝院順逆両方申し合わせのうえ相勤めよとの和解書を岡へ出したが、これまで一山取り仕切り山頂社殿建替えてきた岡はこれを不服として三宝院訴状出したその後順逆双方から書類出し同年11月三宝院鳳閣寺より次の裁断下された山頂社殿順逆宗徒交互に造営する理由見当たらないので、これまで通り順峰側が建替えること。 順峰が鳥海山龍頭寺寺号最近名乗り始めたとのことであるが、順峰側では古来より名乗っている寺号とのことであった、よって逆峰側が更なる証拠を見つけてから申し出ること。 山頂社殿天和2年1682年)の棟札遊佐郡から飽海郡書き換えているのは、幕府の命に従った為である。 嶺境は行政領分なので当方では裁断できない後日判明した際に双方より申し立てること。それまで従来通りにすること。 鳥海山古来より順逆両部の山であるので、今後順逆申し合わせのうえ古例のごとく勤仕すること。 この裁断により一旦は息を潜めたかに見えた順逆論争であるが、山頂社殿建替後の遷宮式において矢島群衆棟札奪い取る事件発生し再燃することとなる。 岡、矢島の嶺境の論争 建替え論争破れた矢島宗徒は、三宝院が「嶺境は行政領分なので後日申し立てること」としたことを以って嶺境の訴訟起こしたしかしながら嶺境問題宗徒のみならず庄内藩矢島藩にとっても重大問題であることから、最後は両藩が相争う状態となって行く。元禄16年1703年三宝院鳳閣寺これまでの建替論争経過付帯文書添え、さらにその顛末述べて幕府寺社奉行所に裁決出願した寺社奉行所では審理の末、嶺境は不明だが『日本三代実録』に大物忌神社飽海郡山上にあることが明記されているので、棟札飽海郡と書くのを妥当とし、嶺境は不問とするよう裁決出した。この裁決矢島宗徒従わず、それに加え、この問題重大な国境問題となる矢島藩領内百姓の名を以って寺社奉行訴え出た。ここに至り寺社奉行はこの問題重大事判断して評定所審理移した評定所庄内修験百姓答弁書提出命じ、翌宝永元年1704年庄内修験百姓等は答弁書提出した。これに対し矢島宗徒吹浦宗徒主張利用し大物忌神社吹浦遷座しており現在の山頂社殿由利郡属するものである主張追訴した。評定所現地検使派遣して検分と共に聞き取り調査行い、かつ双方修験百姓江戸呼び出し吟味した結果同年9月次の判決言い渡した。『日本三代実録』の記述どおり山頂社殿大物忌神社とし、山頂社殿所在する場所は飽海郡とする。 西は笙野岳腰より稲村岳の8分に亘り、東は女郎岳の腰までをもって郡境と定める。 これにより、由利郡山腹秋田山腹)の7合目より以南飽海郡になったまた、この判決関しいくつかのいざこざ庄内藩矢島藩の間に起こったと言われる吹浦一宮名号使用訴願 宝永元年1704年)の評定所判決以降山上直接奉仕しているのは宗徒であると強く認識されるようになり、その勢力増して行った勢力増大により、宗徒山頂社殿出羽国一宮大物忌神社岡を鳥海山表口別当吹浦末社称する至り吹浦大物忌神社は全く岡に奪われたも同然の状態となってしまった。宝永4年1707年社家進藤太夫邦實はこれを嘆き回復を計らんとして一宮名号吹浦許されることを庄内藩訴願した。鶴岡寺社奉行吟味した結果太夫訴願幕府の嶺境裁断において山頂社殿大物忌神社とした際の判決を戻すとして、「公義御裁許破り」の罪名太夫出羽一国追放にした。

※この「一宮争い」の解説は、「鳥海山大物忌神社」の解説の一部です。
「一宮争い」を含む「鳥海山大物忌神社」の記事については、「鳥海山大物忌神社」の概要を参照ください。

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