タケミナカタ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/03 13:35 UTC 版)
タケミナカタ(ミナカタトミ、タケミナカタトミ)は、『古事記』等に伝わる日本神話の神。『古事記』と『先代旧事本紀』では建御名方神(たけみなかたのかみ)、『日本書紀』以外の国史では南方刀美神(みなかたとみのかみ)、御名方富命神、建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)、健御名方富命等とも表記される[1]。建御名方命(たけみなかたのみこと)、武御名方命、健御名方刀美神、武南方富命、武南方神、武御名方主命、御名方刀美命等という表記を用いる文献や神社もみられる。
- 1 タケミナカタとは
- 2 タケミナカタの概要
タケミナカタ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 04:12 UTC 版)
「タケミナカタ#『古事記』の説話について」も参照 建御名方神は『古事記』では国譲り神話のみに登場している。大国主神の子でありながらその系譜には名前が見られず、国譲りの場面にも唐突に出てくる。(前述の通り『旧事本紀』ではちゃんと大己貴神の系譜には記述があり、大己貴神と高志沼河姫の子となっている。)そればかりでなく、『出雲国風土記』や『出雲国造神賀詞』にある出雲国の伝承にも一切登場しない。この理由から、建御名方神を国譲り神話に挿入された諏訪地方の土着神、または『古事記』の編纂者もしくは朝廷側が造作した神とする説が挙げられている。なお、過去には建御名方神が伊勢津彦、御穂須々美命、天津甕星等のような神話が似ている神々と比定されることがあった。近年では長髄彦・天八現津彦命と同一視する見解もある。 『古事記』や『旧事本紀』に見られる建御名方神の敗走の話が諏訪大社の起源譚として認識されるようになったのは『諏方大明神画詞』(1356年)成立以降で、諏訪ではこれと異なる神話が伝えられている(諏訪明神こと建御名方神の洩矢神との覇権争いの話など)。この神話は古墳時代に起こった出来事を反映しており、『古事記』の説話のモデルともなったと考えられていたが、この伝承自体があまりにも聖徳太子と物部守屋の争い(丁未の乱)にまつわる伝承と似ていることから、中世の聖徳太子伝承の影響を色濃く受けた、あるいは聖徳伝承を基にして創作された神話であるという意見も近年になって出て来ている。 『古事記』では建御名方神が無様な負け方をした神として描かれているが、中世伝承では神功皇后や坂上田村麻呂に力を貸した立派な神とされ、平安時代末期から香取神宮や鹿島神宮に並ぶ軍神として広く信仰された。中世前期の諏訪大社の縁起は当時広く読まれていなかった『古事記』や『日本書紀』の影響なしに成立したものと考えられている。 諏訪大社は諏訪湖の南にある上社(かみしゃ)と、その北にある下社(しもしゃ)の2社から成る。建御名方神(諏訪明神)を祀る上社ではかつて大祝(おおほうり)と呼ばれる神官が神の神体とされ、現人神して崇められていた。この大祝は神の身代わりであるがゆえに在職中に穢れに触れてはならず、諏訪郡から出てはならないとされた。『古事記』では建御名方神が「この地を除(お)きては他処(あだしところ)に行かじ」と誓う場面は、この掟に関係するという説はある。ただし、大祝を権威や権力から超越した現人神とする信仰はそう古くなく、鎌倉時代に起こったもので、大祝の郡外不出の掟も『古事記』とは直接関係がないという説も挙げられている。
※この「タケミナカタ」の解説は、「国譲り」の解説の一部です。
「タケミナカタ」を含む「国譲り」の記事については、「国譲り」の概要を参照ください。
- タケミナカタのページへのリンク