『古事記』の説話についてとは? わかりやすく解説

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『古事記』の説話について

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 12:55 UTC 版)

タケミナカタ」の記事における「『古事記』の説話について」の解説

タケミナカタ『日本書紀』における国譲り神話、または『出雲国風土記』や『出雲国造神賀詞』に録されている出雲国伝承一切登場せず、『古事記』でも大国主神の子ありながらその系譜に名前がみられない。この理由から、本居宣長は『古事記伝』で「書紀に此建御名方神故事をば、略(はぶ)き棄てて記されざるは、いかにぞや」と疑問発した。この理由から、近代に入るとタケミナカタ国譲り神話挿入されたという説が主流となった津田左右吉は、「古事記にのみ見えタケミナカタの神は、オホナムチの命の子孫の名の多く列挙して此の書のイヅモ系統の神の系譜には出ていゐないものであるから、これははるか後世の人の附加したものらしい」と推考し、諏訪と結びつけたのは「此の地に古くから附近住民呪術祭祀を行ふ場所があつて、それが有名であつたためであらう」と書いていた。 松村武雄1925年)によると、タケミナカタ登場する場面は「国土譲渡交渉譚に添加せられた一挿話であつて、本原的なものではないであらう。」この説においてはタケミナカタ諏訪地方にいた「皇祖側に対抗する勢力」の代表者であって、その話が逆用的に国譲り神話持ち込まれたとされている。辻春緒(『日本建国神話研究』)も同様の説を立てていた。 太田亮1926年)はこの説話を「根拠なき虚構神話」と考え中臣氏信奉していた鹿島神タケミカヅチ)の神威高めるために挿入された、皇室にはどんなに抵抗するとも勝てないという教訓のあるものとしていた。 郷土史家栗岩英治は、国譲り葛藤出雲だけでなく他所伊勢美濃信濃など)にも起こり、これが一つまとまったのが『古事記』国譲り神話とした。「所謂神代国譲の条を斯く解剖的研究して来ると、健御名方神が諏訪鎮座ましますのが不思議でも何でもなくなる。又出雲風土記や、出雲国造神賀詞御名方神のないのが当然で、書紀編者抹殺したのも、国譲伝説混乱気付かなかった故であらう。」 宮地直一1931年)は、タケミナカタ説話原型が「出雲人の伝承母胎とする」諏訪地方発生したもので、これが後に大国主国譲り神話融合されたという説を唱えたまた、タケミカヅチとの力競べ皇祖側の威光高めるために創作されたもので、タケミナカタには劣敗者という性格が元々なかったと主張した宮地によると、「勝敗懸隔余りに甚だしいあたりは、かの野見宿禰当麻蹴速との角力に関する物語同様の仕組になり、従つて之に対するのと同様の気持を起ささる。」更に、諏訪祭神が「諏訪神」なる自然神からタケミナカタという人格神変化したのが「古事記成立奈良朝余り遠ざからぬ前代の事」という見解示した高階成章1935年)はタケミナカタを「古代信濃に於ける信仰の対象」とし、『古事記』神話信濃国起こった国土奉還出雲神話統合され成立したものとしていた。高階曰く、「諏訪神社信仰旧来の原始信仰から建御名方神対す軍神又は武神信仰移りつつあつた時代に…中臣氏がその氏神とする処の鹿島神にも武神としての信仰台頭し来りて、古事記編纂といふ好機中臣氏氏族制度時代の習として自己の氏神武徳称へんとして、その犠牲建御名方神を以てなした。」なお『日本書紀』にこの記述見られないのは、『書紀』が公の文書であるがために中臣氏が力を注がれ得なかったからである。 肥後和男1938年)は、『日本書紀』景行天皇四十年条にみられる信濃坂(神坂峠)においてヤマトタケルが白い鹿の姿をした山の神を殺す話がタケミナカタ神話と「同一根源に出るもの」、しかのみならずその「一つ前の形」という説を立てた。この説において、諏訪地方祀られていた鹿神山の神)が「タケミナカタ」という人格神変化して大国主武勇象徴するものとして出雲の国譲り神話組み込まれた。それに加えて千引の石持ち上げたタケミナカタ対す剣神タケミカヅチ勝利を「石に対す金属の勝利」をあらわし、またはタケミカヅチを酒の神、すなわち農業の神とも解釈できることから「狩猟文化に対す農業文化勝利」を意味するとも推量した三品彰英1957年)は、コトシロヌシタケミナカタ出雲の神である大国主の子として国譲り神話添加され他所大和信濃)の神々としていた。三品によると、「(タケミナカタの)名は『古事記』オオクニヌシの神系譜述べた条にも見えていないほどで、オホクニヌシとの関係は極めて薄い。タケミカツチ・フツヌシの神は大和平定をはじめ、ヤマト祭政支配拡大先頭に立つ神であり、科野タケミナカタとの交渉他の地方での話であったのではあるまいか。いわゆる手取り誓約」を語るもので、それが国ゆずりの代表的な出雲物語添加されることはそれほど無理ではない。」 伊藤冨雄1963年)はこの説話について、「天皇家所伝そのまま書記されたものか、あるいは鹿島神社伝承採用されものかは判らないが、おそらく其の出所は、諏訪ではなかったであろう」と述べ諏訪神氏には『古事記』とは全く別な神話(『信重解状』に書かれている入諏神話)があることを指摘した金井典美(1982年)は『古事記』におけるタケミナカタ神話には北陸地方高志国)の族長山陰地方出雲国)がヤマト王権服属した後も反抗し続けたといった史実反映しているのではないか考えた。彼曰く、「(タケミナカタが)出雲からはるばる諏訪まで逃げてきたというのは、いかに神話でもしっくりしないが、北陸あたりから糸川あたりの水系通って諏訪まで逃げてきたというなら、あり得そうな話である。そして高志それ以前出雲服属した事実があって、ヤマタノオロチヌナカワヒメ神話成立したとも想像される。」 松前健は、力竸べ説話後世の「河童のわび証文型の説話(河童水の精霊)と人が争って河童腕を引き抜かれ誓いをする説話)と一致することから、元々はタケミナカタ諏訪湖水神打ち負かす説話であったのが中央神話換骨奪胎されたとする説を提唱した宮坂光昭(1987年)は『古事記』書かれている説話諏訪に伝わる入諏伝承脚色とみて、『古事記』編纂に関わった、科野国造家金刺氏)と同族関係に当たる多氏太安万侶がこの地方神話をもとに「タケミナカタ」という神を創作して諏訪の独特の祭神として記載したという説を唱えた。この説においては、「(タケミナカタ」(=「像」あるいは「潟」)という神名諏訪湖見られる御神渡りという神秘的な自然現象因んだ名前で、大祝代々総称とされている。 大和岩雄1990年)の説によると、信濃国造家諏訪ミシャグジ信仰ヤマト王権神統譜に組み入れた結果、「タケミナカタ」という神名生まれた大和は、太安万侶同族科野国造家意思受けてタケミナカタ大国主の子として国譲り神話入れた推測して神話上のタケミナカタ敗走ミシャグジ祀る守矢氏科野国造勢力敗れた事と重なっているとも指摘した。 『諏訪市史』では、科野国造後裔である金刺氏始祖同じくする系譜を持つ太安万侶働きかけ建御名方神についての神話挿入させたとする工藤浩2004年)はタケミナカタ物部氏が奉斎したフツヌシ比定して、国譲り神話原形物部氏による出雲県(あがた)の設置に基づくとした。『古事記』におけるタケミナカタ像は、物部氏没落後に中央政界台頭した中臣氏よるもので、国譲り神話から物部氏の影を払拭ようとして『古事記』編纂者天津神派遣される使者フツヌシからタケミカヅチ変えて、「タケミナカタ」(神名は「御県の神」というフツヌシ別称から)という神を創作して、これをタケミカヅチやられ役にしたという。 寺田鎮子鷲尾徹太(2010年)は、タケミナカタヤマト王権による日本古来信仰整理統一文脈作り出され朝廷への服従のしるしとして諏訪押し付けられ人格神としている。諏訪人々表面上この神格受け入れたが、古来ミシャグジ信仰捨てずヤマト王権の「カミ整理統合」に抗って独自の信仰を裏で発展させ続けたという。なお、寺田鷲尾神氏大神氏三輪氏)の同族集団として捉えており、『古事記』タケミナカタ敗走の話が三輪山麓を本拠としていた三輪王朝崇神王朝)がヤマト政権応神王朝)の確立とともに地歩失い東国へと分散していったこと(王朝交替説)を反映しているのはあり得るとも考えている。 戸矢学2014年)はタケミナカタ建御名方)という神名文字通り「建き御名の方」と解釈し物部守屋比定している。この説において、丁未の乱の後に物部氏一族(後の守矢氏)が諏訪逃亡して、そこで亡き守屋の霊を「タケミナカタ」という怨霊神・祟り神として祀ったとされている。『古事記』説話は、朝廷タケミナカタ崇拝する勢力武力放棄誓約をさせたという出来事をもとに創作され神話としている。 宝賀寿男2006年2015年)は、タケミナカタ『古事記』、『先代旧事本紀通り事代主神の弟と位置づけ、その世代神武天皇一世代前と想定している。また国譲りの舞台博多平野奴国)であり、これを後世人間出雲混同したもので、『古事記』伝え出雲の国譲り大国主神の名、事代主神タケミナカタ兄弟『出雲国風土記』にないことはこのためであるとしている。事代主神大物主神)とは顕著な信仰を持つという共通点から、同じ磯城県主大神君の同族であり、神人部を姓氏としたことにも通じるとしている。また伊勢津彦についてはその天孫族鍛冶氏族特徴から、本来は別神であり、神武天皇東征によって故国追われたことから混同されものとする佐藤雄一2017年)はタケミナカタ挿入説を支持しながらも『古事記』国譲り神話成立天武持統朝(7世紀後半)求めており、『古事記』神話では州羽(諏訪)が葦原中国の最東端として出てくることを当時政権にとっての信濃国重要な位置づけ反映していると考えている。また、創作された神」である建御名方神が、本来の諏訪における神(『日本書紀』持統天皇紀に見え水神としての須波神」)に代わって信仰集めようになった理由を、6世紀欽明天皇仕え氏族として成立した金刺舎人氏が、6世紀後半諏訪支配するようになって以降守矢氏共同祭祀行ない、その地位高め、それを示すのが建御名方神神階昇叙であるという。加えて金刺舎人氏は多氏同族であり、太安万侶通じて『古事記』建御名方神神話を書かせ、壬申の乱騎兵率いた多品治も、信濃国で馬を飼育していた金刺舎人氏と接近し朝廷と金舎人氏を結びつける役割担ったという。

※この「『古事記』の説話について」の解説は、「タケミナカタ」の解説の一部です。
「『古事記』の説話について」を含む「タケミナカタ」の記事については、「タケミナカタ」の概要を参照ください。

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