応神王朝(河内王朝)(ワケ王朝)
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「王朝交替説」の記事における「応神王朝(河内王朝)(ワケ王朝)」の解説
応神王朝は天皇の宮と御陵が河内(当時、律令制以前の為、律令制以後の河内国以外の摂津国、和泉国の範囲を含んでいた)に多いことから河内王朝ともよばれている。この王朝に属する天皇や皇族に「ワケ」のつく名称をもつ者が多いことから「ワケ王朝」とよばれることもある。河内王朝は上記の王朝交替論のなかでも大きな位置を占める。その理由は、前後の二つの王朝を結ぶ位置に河内王朝が存在するからである。水野祐は中王朝と呼称し、一般に初期大和政権、第2次大和政権などと呼ばれる王朝である。 なお、応神天皇を架空の天皇とする見解もある。応神天皇の出生が伝説的であることから、応神天皇と仁徳天皇は本来同一の人格であったものが三輪王朝と河内王朝を結びつけるために二つに分離されて応神天皇が作り出されたとする説で、この場合王朝は仁徳王朝とよばれる。水野祐も仁徳王朝としている。 河内王朝(応神王朝)は、宋書に倭の五王が10回にわたり遣使したとの記述があり、倭の五王が河内王朝の大王と推測されることから王朝全体の実在の可能性は高い。ただし、倭の五王の比定は諸説ある。 また、大阪平野には、河内の古市墳群にある誉田御廟山古墳(伝応神陵)や和泉の百舌鳥古墳群にある大仙陵古墳(伝仁徳陵)など巨大な前方後円墳が現存することや、応神天皇は難波の大隅宮に、仁徳天皇は難波の高津宮に、反正天皇は丹比(大阪府松原市)柴垣に、それぞれ大阪平野の河内や和泉に都が設置されていることなどから、河内王朝時代に大阪平野に強大な政治権力の拠点があったことは間違いない。 この河内王朝説を批判する門脇禎二によると河内平野の開発は新王朝の樹立などではなく、初期大和政権の河内地方への進出であったとする。また、河内王朝説でも直木孝次郎、岡田精司による、瀬戸内海の制海権を握って勢力を強大化させた河内の勢力が初期大和政権と対立し打倒したとする説や、上田正昭による三輪王朝(崇神王朝)が滅んで河内王朝(応神王朝)に受け継がれたとする説と、水野、井上の九州の勢力が応神天皇または仁徳天皇の時代に征服者として畿内に侵攻したとする説とがある。
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