応神王朝とは? わかりやすく解説

応神王朝(河内王朝)(ワケ王朝)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 14:43 UTC 版)

王朝交替説」の記事における「応神王朝(河内王朝)(ワケ王朝)」の解説

応神王朝は天皇の宮と御陵河内(当時律令制以前の為、律令制以後河内国以外の摂津国和泉国範囲含んでいた)に多いことから河内王朝ともよばれている。この王朝属す天皇皇族に「ワケ」のつく名称をもつ者が多いことから「ワケ王朝」とよばれることもある。河内王朝上記王朝交替論なかでも大きな位置占める。その理由は、前後二つ王朝を結ぶ位置河内王朝存在するからである。水野祐は中王朝呼称し、一般に初期大和政権第2次大和政権などと呼ばれる王朝である。 なお、応神天皇架空天皇とする見解もある。応神天皇出生伝説的であることから、応神天皇と仁徳天皇は本来同一の人であったものが三輪王朝河内王朝結びつけるために二つ分離され応神天皇作り出されたとする説で、この場合王朝仁徳王朝よばれる水野祐仁徳王朝としている。 河内王朝(応神王朝)は、宋書倭の五王10回にわたり遣使したとの記述があり、倭の五王河内王朝大王推測されることから王朝全体実在可能性は高い。ただし、倭の五王比定諸説ある。 また、大阪平野には、河内古市墳群にある誉田御廟山古墳(伝応神陵)や和泉百舌鳥古墳群にある大仙陵古墳(伝仁徳陵)など巨大な前方後円墳現存することや、応神天皇難波大隅宮に、仁徳天皇難波高津宮に、反正天皇丹比大阪府松原市柴垣に、それぞれ大阪平野河内和泉に都が設置されていることなどから、河内王朝時代大阪平野強大な政治権力拠点があったことは間違いない。 この河内王朝説批判する門脇禎二によると河内平野開発新王朝樹立などではなく初期大和政権河内地方への進出であったとする。また、河内王朝説でも直木孝次郎岡田精司による、瀬戸内海制海権握って勢力強大化させた河内勢力初期大和政権対立し打倒したとする説や、上田正昭による三輪王朝崇神王朝)が滅んで河内王朝(応神王朝)に受け継がれたとする説と、水野井上九州勢力応神天皇または仁徳天皇時代征服者として畿内侵攻したとする説とがある。

※この「応神王朝(河内王朝)(ワケ王朝)」の解説は、「王朝交替説」の解説の一部です。
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