巨大古墳の時代とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 巨大古墳の時代の意味・解説 

巨大古墳の時代(古墳時代中期前半)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 13:49 UTC 版)

ヤマト王権」の記事における「巨大古墳の時代(古墳時代中期前半)」の解説

4世紀末から5世紀全体通じて考古学における古墳時代時期区分では中期とされる。この時期になると、副葬品のなかで武器武具比率大きくなり、馬具あらわれて短甲や冑など騎馬戦用の武具増えるこうした騎馬技術武具道具は、上述した4世紀末から5世紀初頭の対高句麗戦争において、騎馬軍団との戦闘通じてもたらされたものと考えられるが、かつてはこのような副葬品変化過大に評価して騎馬民族日本列島農耕民を征服して「大和朝廷」立てたとする「騎馬民族征服王朝説」がさかんに唱えられ時期があった。 確かにヤマト起源とされる前方後円墳5世紀以前朝鮮半島では見つかっているものの、江上波夫の説のように騎馬技術武具道具倭国急速に流入し政権変貌したという証拠乏しい。その間日本においては首長墓・王墓型式3世紀以来変わらず連綿として前方後円墳つくられるなど、前期古墳中期古墳の間には、江上指摘した断絶性よりも、むしろ強い連続性認められることから、この説は現在では以前ほどの支持得られなくなっている(→騎馬民族征服王朝説参照)。 中期古墳の際だった傾向としては、何といってもその巨大化である。とくに5世紀前半河内平野大阪平野南部)に誉田山古墳(伝応神陵墳丘420メートル)や大山古墳(伝仁徳陵墳丘525メートル)は、いずれも秦の始皇帝陵とならぶ世界最大級の王墓であり、ヤマト王権権力権威大きさをよくあらわしている。また、このことはヤマト王権中枢奈良盆地から河内平野移ったことも意味しているが、水系着目する白石太一郎は、大和・柳本古墳群奈良盆地南東部)、佐紀盾列古墳群奈良盆地北部)、馬見古墳群奈良盆地南西部)、古市古墳群河内平野)、百舌鳥古墳群河内平野)など4世紀から6世紀における墳丘200メートルを越す大型前方後円墳もっぱら大和川流域分布することから、古墳時代通じて畿内支配者層大型墳墓は、この水系のなかで移動しており、ヤマト王権内部での盟主移動を示すものとしている。また、井上光貞河内の王は入り婿の形でそれ以前ヤマト王家つながっていることをかつて指摘したことがあり、少なくとも、他者簡単に取って替わることのできない権威確立していたことがうかがわれるいっぽう4世紀巨大古墳奈良盆地三輪山付近に集中するのに対し5世紀代には河内顕著に大古墳がつくられたことをもって、ここに王朝交替想定する説、すなわち「王朝交替説」がある。つまり、古墳分布という考古学上の知見に、記紀天皇和風諡号検討から、4世紀古墳時代前期)の王朝三輪王朝(「イリ」系、崇神王朝)というのに対し5世紀古墳時代中期)の河内勢力河内王朝(「ワケ」系、応神王朝もしくは仁徳王朝)と呼ばれる。この学説水野祐によって唱えられ井上光貞応神新王朝論、上田正昭河内王朝論などとして展開し直木孝次郎岡田精司らに引き継がれた。 「王朝交替説」も参照 しかし、この王朝交替説に対していくつかの立場から批判出されているのが現状である。その代表的なものに「地域国家論」がある。また、4世紀後半から5世紀にかけて大和勢力河内勢力一体化しており、両者は「大和河内連合王権」ともいうべき連合関係にあったため王朝交替はなかったとするのが和田萃である。大和川流域間の移動重視する白石太一郎同様の見解に立つ。 5世紀前半ヤマト以外の地に目を転ずると、日向筑紫吉備毛野丹後などでも大きな前方後円墳つくられた。なかでも岡山市造山古墳墳丘360メートル)は墳丘長で日本第4位の大古墳であり、のちの吉備氏へつながるような吉備大豪族が大きな力をもち、鉄製道具駆使してヤマト政権連合において重要な位置をしめていたことがうかがわれるまた、このことより各地豪族ヤマト王権服属しながらも、それぞれの地域独自に勢力のばしていたと考えられる先述した「地域国家論」とは、5世紀前半においては吉備筑紫毛野出雲など各地かなりの規模地域国家があり、そのような国家1つとして当然畿内にも地域国家ヤマト」があって並立ないし連合の関係にあり、その競合のなかから統一国家生まれてくるという考えである。このような論に立つ研究者には佐々木健一らがいる。しかし、そうした地域においては国家として想定される政治機構徴税機構軍事・裁判機構存在していた証明なされておらず、巨大古墳だけで地域国家論を唱えることは論理の飛躍であるとの反論もある。 5世紀初めまた、渡来人帰化人)の第一波のあった時期であり、『日本書紀』『古事記』には、王仁阿知使主弓月君東漢氏秦氏の祖にあたる)が応神朝に帰化した伝えている。須恵器使用がはじまるのも、このころのことであり、渡来人もたらした技術考えられている。 5世紀にはいって、再び倭国中国史書あらわれた。そこには、5世紀初めから1世紀わたって、讃・珍・済・興・武の5人の倭王あいついで中国南朝使い送り皇帝対し朝貢したことが記されている。倭の五王は、それにより皇帝臣下となり、官爵授けられた。中国皇帝頂点とする東アジア国際秩序冊封体制呼んでいる。これは、朝鮮半島南部諸国任那加羅)における利権獲得有利に進め目的であろう考えられており、実際に済や武は朝鮮半島南部支配権認められている。 倭王たちは、朝鮮半島での支配権南朝認めさせるために冊封体制にはいり、珍が「安東将軍倭国王」(438年)、済がやはり「安東将軍倭国王」(443年)の称号を得、さらに済は451年に「使持節都督六国諸軍事」を加号されている。462年、興は「安東将軍倭国王」の称号得ている。このなかで注目すべき動きとしては、珍や済が中国の皇帝対し、みずからの臣下への官爵求めていることが揚げられる。このことはヤマト政権内部秩序づけに朝貢役立てたものと考えられる

※この「巨大古墳の時代(古墳時代中期前半)」の解説は、「ヤマト王権」の解説の一部です。
「巨大古墳の時代(古墳時代中期前半)」を含む「ヤマト王権」の記事については、「ヤマト王権」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「巨大古墳の時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「巨大古墳の時代」の関連用語

巨大古墳の時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



巨大古墳の時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのヤマト王権 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS