七支刀と広開土王碑とは? わかりやすく解説

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七支刀と広開土王碑(古墳時代前期後半)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 13:49 UTC 版)

ヤマト王権」の記事における「七支刀と広開土王碑(古墳時代前期後半)」の解説

4世紀後半にはいると、石上神宮奈良県)につたわる七支刀の製作が、銘文により369年こととされる。356年馬韓の地に建国され百済王世子太子)が倭国王のためにつくったものであり、これはヤマト王権百済王権との提携成立したことをあらわす。なお、七支刀実際に倭王贈られたことが『日本書紀』にあり、それは干支二順繰り下げ実年代を計算する372年のこととなる。 いずれにせよ倭国任那諸国とりわけ任那(金官)と密接なかかわりをもち、この地に産する資源確保した。そこはまた生産技術輸入する半島窓口であり、勾玉、「倭式土器」(土師器)など日本列島特有の文物出土により、倭の拠点成立していたことが確認された。 いっぽう半島北部では、満州東部森林地帯起源をもつツングース系貊族の国家高句麗が、313年楽浪郡帯方郡侵入してこれを滅ぼし4世紀後半にも南下つづけた中国吉林省集安所在する広開土王碑には、高句麗倭国通じた百済討ち、倭の侵入をうけた新羅救援するため、400年404年2度わたって倭軍と交戦し勝利した刻んでいる(倭・倭人関連の朝鮮文献)。 この時期ヤマト王権政治組織については、文献記録がほとんど皆無であるため、朝鮮半島への出兵という重大事件があったことは明白であるにもかかわらず将兵構成動員様態をふくめ不詳な点が多い。しかし、対外的な軍事行動を可能とするヤマト王権基盤が既に整っていたことが理解できる

※この「七支刀と広開土王碑(古墳時代前期後半)」の解説は、「ヤマト王権」の解説の一部です。
「七支刀と広開土王碑(古墳時代前期後半)」を含む「ヤマト王権」の記事については、「ヤマト王権」の概要を参照ください。

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