この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方 ) 出典検索? : "織田信徳" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2023年11月 )
織田 信徳 (おだ のぶのり)は、江戸時代 後期(幕末 )の旗本 、明治 期の士族 。通称 は数馬。
生涯
弘化 5年(1848年 )、高家 旗本・織田信愛 の長男として誕生した。
『大武鑑』によれば、慶応 3年(1867年 )には部屋住みながらも表高家衆の一人として確認できることから、既に御目見 を済ましていたと推測される。幕末期に父信愛の撮った信徳の写真も存在している。明治維新 に際し、父・信愛と共に明治政府 に敵対的な行動を取って謹慎を命じられたようである。明治 2年(1869年 )6月6日 、新政府から父と共に謹慎を解かれる。謹慎の解除にあたって、新政府は本家の織田寿重丸 に父子を引き取り、扶助するように命じている。
明治維新後
父信愛と同様に博物学 に関心を示し、維新後は動物学 を志し、西洋式の剥製 技術を学んだという。高千穂宣麿 に昆虫の標本作りの技術を教えたという。『動物生態写真集』などの著書もある。なお、高千穂は「信徳の妻、安も剥製術をよくし、特に魚類の剥製術は彼女の創始した方法が優れていた」(『蛍嶺仙話』)と記す。
明治5年(1872年 )、澳国博覧会 事務局に雇われて、町田久成 の下で湯島における博覧会の準備などに携わる。明治10年(1877年 )6月、江戸時代に本草学 を学んだ田中房種らと三重県 ・和歌山県 で植物の調査にあたる。明治27年(1894年 )秋、次男明の暮らす大阪へ家族全員で転居する。明治36年(1903年 )の第5回内国勧業博覧会 に際し、大阪での動物園設置を山岡千太郎らとはかり、『余興動物園集容動物目録及解説』を出版する。明治36年(1903年)7月13日、大阪で死去し、天王寺区 の梅松院に埋葬されたようである。
系譜
父:織田信愛
母:不詳
妻:安 - 旧幕臣・大久保肥後守の娘
生母不明の子女
織田氏 (平姓 )
伊勢守家
大和守家
因幡守家
藤左衛門家
弾正忠家
信長流
信長
信忠流
信雄流
勝長流
勝長
津田家
勝良
長政
喬長
信要
信節
伝八郎
主税
信勝
則長
…
信高流
信貞流
信勝流
信包流
信治流
信治
柘植家
正俊
正時
正直
兄正
影正
晃正
正寔
正陽
…
長益流