織田信門とは? わかりやすく解説

織田信門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/06 01:03 UTC 版)

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織田信門
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛文2年(1662年
死没 正徳6年6月1日1716年7月19日
改名 長元(初名)→長福→信門
別名 通称:平十郎
墓所 東京都品川区北品川東海寺清光院
官位 従五位下侍従美作守従四位下左少将、従四位上・能登守
幕府 江戸幕府高家、高家肝煎
主君 徳川綱吉家宣家継
氏族 織田氏(信高流高家)
父母 父:織田一之、母:織田高長五女
兄弟 信門高元
正室:上杉長貞次女
信有、庄八郎、権之助、丹羽主膳室、
荒川定由継室、稲生正甫[1]
養子:長善信倉
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織田 信門(おだ のぶかど)は、江戸時代前期から中期にかけての高家旗本官位従五位下侍従美作守従四位下左少将、従四位上・能登守

生涯

寛文2年(1662年)、旗本・織田一之の嫡男として誕生。貞享4年(1687年)7月10日、父・一之の隠居により家督を相続する。弟・高元に500石を分知した結果、家領は近江国神崎郡内1514石余りとなる。

元禄元年(1688年)11月25日、高家旗本となる。以後、幕末まで織田家は高家旗本として幕府に仕えた。元禄2年(1689年)1月11日、高家職に就任する。従五位下侍従・美作守に叙任し、後に従四位上に昇進する。宝永3年(1706年)9月、高家肝煎。宝永7年(1710年)12月1日、安房国朝夷郡500石を加増される。

正徳6年(1716年)6月1日、死去。享年55。

なお、安土(現・近江八幡市安土町)の摠見寺織田信長愛用とされるを奉納している。表と裏に永楽銭が彫刻され、重要文化財に指定されている。

系譜

  • 父:織田一之
  • 母:織田高長五女
  • 正室:上杉長貞次女
  • 生母不明の子女
    • 長男:織田信有
    • 男子:庄八郎
    • 男子:権之助
    • 女子:丹羽主膳室
    • 女子:荒川定由継室
    • 女子:稲生正甫室
  • 養子
    • 男子:織田長善 - 大和国芝村藩主・織田長清の四男、信有の死去により養子となる。
    • 男子:織田信倉 - 旗本・能勢頼寛の三男。信有の死去により養子となる。

脚注

  1. ^ 堺奉行23代




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