織田長迢とは? わかりやすく解説

織田長迢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/06 09:52 UTC 版)

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織田長迢
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛永19年(1642年
死没 享保3年1月18日1718年2月17日
改名 長迢→自斎(号)
別名 通称:多門、平八郎
官位 従四位下侍従隼人正
幕府 江戸幕府高家旗本
主君 徳川綱吉
氏族 高家織田氏
父母 父:織田貞置、母:佐久間正勝
兄弟 長迢貞則貞輝など4男3女
養兄弟:貞幹
正室:織田信昌長女
津田長経、長能、鳥居忠丘室
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織田 長迢(おだ ながとお)は、江戸時代前期から中期にかけての高家旗本茶人通称は多門、平八郎。官位従四位下侍従隼人正

生涯

高家旗本織田貞置の長男として誕生した。

万治2年(1659年7月11日、部屋住ながら書院番に召し出された。後に父・貞置が高家に就任したことで解職となった。天和2年(1682年6月2日、貞置の隠居により家督を相続した。相続の際に弟の貞則に300石を分けたため、家禄は700石となった。天和3年(1683年2月13日、高家職に就任し、翌月、従四位下・隼人正に叙任された。元禄5年(1692年3月23日、高家職を辞職し、寄合に所属した。元禄15年(1702年6月23日に隠居し、次男の長能に家督を譲った。以後、自斎と称した。

享保3年(1718年)1月18日死去、享年77。墓地は東海寺清光院にある。以後、歴代の当主が同院に葬られた。明治期に15基の供養塔が一つにまとめられた。

父の貞置から有楽流の茶道を学んでいる。

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