城田寺城の落城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/04 03:48 UTC 版)
しかし、政方が元頼方に味方した織田寛定を攻めるため、尾張に布陣していた隙を突き、明応5年(1496年)3月20日、子の利高が細川氏、六角氏、北畠氏らの後援で、南近江で兵を集い伊勢国方面を経て美濃へ侵攻した。元頼を総大将、利藤の末子毘沙童を副将として二軍に分けて進軍するも、戦況の変化から利高の進軍を止めさせようとするが、利高はこれを拒む。尾張の津島から竹鼻を通り、墨俣で出迎えていた斎藤軍を破り、隠居していた成頼の居城・城田寺城に向かった。 初め、成頼は利光らが入城することを拒否したが、元頼も一緒だと知ると城内に招き入れ城田寺城に篭城した。しかし、政房方に与した岩倉の守護代「織田伊勢守家」当主の織田寛広と妙純の娘婿朝倉貞景らに城田寺城を包囲され、援軍として駆けつけた六角氏も斎藤方の京極氏に敗れ、落城寸前となり、籠城を主張する子の利元を宥め、成頼と毘沙童の助命を条件に降伏したが、同年5月30日に斎藤軍の奇襲に遭い、利元と共に自害した。 岐阜県岐阜市城田寺の舎衛寺に「船田合戦終焉之地」の碑がある。
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