城田寺城の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/08 15:50 UTC 版)
尾張下四郡守護代で石丸利光と姻戚関係にあった織田敏定・寛定父子は美濃へ向かおうとして、織田寛広に行く手を阻まれ敏定は6月に死去、寛定も9月に美濃で戦死して両織田氏の争いは寛広が有利となったが、寛定の弟寛村が後を継いで寛広は苦戦、妙純も寛広に援軍を派遣したが、翌明応5年(1496年)3月23日の合戦で両織田氏は双方共に多数の戦死者を出したため和睦、尾張の戦乱も終結した。 一方、近江にいた利光は再起を図り、4月に管領細川政元に兵糧代を送って幕府の支援を頼み、六角高頼と伊勢の梅戸貞実の支持を得て南近江で兵を集めて美濃侵入を窺った。しかし、両織田氏は和睦したため情勢は不利だったが息子の石丸利高に押し切られて決行した。石丸軍は土岐元頼を総大将、毘沙童を副将として伊勢から尾張津島へ侵攻、竹ヶ鼻に到着した。また、別の一軍は多芸郡に入って放火、威嚇した。 妙純は急遽墨俣に利綱率いる軍を派遣したが、5月10日に石丸軍は斎藤軍を破って北上、成頼がいる城田寺城に迫った。成頼は始め門を閉ざして石丸軍を入れようとしなかったが、利光の使者から元頼が一緒に従軍していること、および幕府の支持を取り付けたことを聞くと門を開き、石丸軍は城田寺城に入った。この事態に妙純は守護政房の命令を受けて城田寺城へ向かい、合わせて婿の朝倉貞景と京極高清に支援を要請した。京極氏は10日に美濃と近江の国境にある弥高山に着陣して援軍に浅井氏・三田村氏を鵜飼(岐阜市黒野)に派遣した。斎藤軍は14日に長良川を渡り、15日から16日にかけて城田寺城を包囲、17日に織田寛広が派遣した尾張軍が到着、26日に朝倉貞景が派遣した越前の軍勢が到着、包囲網に加わった。六角高頼は城田寺城へ救援に向かおうとしたが、国境に遮る京極軍に敗れて500余名を失った。梅戸貞実も妙純方の長野氏に妨害されて美濃へ行けなかった。 利光は29日に自分の切腹と引き換えに成頼と毘沙童の助命を書いた降伏の書状を包囲軍に送り、承諾の返書を受け取ると翌30日に利高と共に切腹した。毘沙童は13歳という幼少だったため罪を許され、後に出家、日運と改名した。成頼は元頼と共に城を出ると言って聞かなかったが、政房の説得を受けて6月16日に単独で城を出た。そして20日に成頼を加納城に奉じる一方で城田寺城に火が放たれ、残された元頼は観念して自殺、1年に渡る合戦は終結した。
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