織田信秀への出仕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 06:41 UTC 版)
尾張国岩崎村の出身とされる。秀隆の河尻氏と醍醐源氏の一派である肥後河尻氏との関係は不明である。『信長公記』には織田大和守家(清洲織田氏)の家臣に同じ河尻姓の人物(河尻与一)が見られ、『美濃国諸家系譜』には秀隆が信長の命によって河尻与一郎重俊の跡を継いだとの記述がある。このため少なくとも清洲織田氏の老臣である河尻与一と同族である可能性は高いと見られている。秀隆は早い時期から清洲三奉行・弾正忠家の織田信秀に仕えた。実名秀隆の「秀」の一字は信秀よりの偏諱と考えられている。 天文11年(1542年)8月、弱冠16歳で信秀に従って第1次小豆坂の戦いに参加した。この時、今川氏の先陣を務めた足軽大将・由原と一騎打ちとなり、組討の末に討ち取るという武功を挙げた。
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