織田信秀による岡崎城攻落説とは? わかりやすく解説

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織田信秀による岡崎城攻落説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 09:51 UTC 版)

安城合戦」の記事における「織田信秀による岡崎城攻落説」の解説

天文16年情勢については、岡崎城上和田大平・岡・筒張等の諸城砦に包囲される状態に置かれたのみに留まらず同年9月信秀によって陥落せしめられたとする説が示されている。この関連から竹千代織田氏人質となった経緯についても、略取された末のものでなく、岡崎城降伏に際して広忠みずから織田氏引き渡したとする見方もある。 ただし、以降広忠立ち位置については、同月28日渡河原の戦いや、これと前後して起きたとみられる松平忠倫暗殺などの事象から、信秀三河を後にした直後広忠が再び反織田旗幟鮮明にしたともみなせるが、翌天文17年3月小豆坂の戦いにおいて、岡崎自体参加認められるものの、上和田経由して安城へ退く織田に対して岡崎城から何ら行動おこされ形跡みられないことから、広忠は同合戦での今川勢の戦勝をうけて今川方に復帰した可能性もあるとみられている。この場合今川勢に与した岡崎衆とは織田への屈伏潔しとせず今川方を頼った者たちであるとされる同年4月山崎城松平信孝信秀許し得て独力で岡崎城を落とすために出陣した。しかし、額田郡明大寺の耳取縄手における野戦で、矢を射掛けられ討死する(耳取縄手戦い)。 もとより信孝の追放広忠積極的に行ったものでなく、反信孝派の重臣たちによって主導されたものであった広忠としては、信孝が織田氏頼り敵対する結果至ったのには自らにも原因があると考えており、叔父である信孝の生け捕り望んでいたが、意に反して信孝は討死してしまった。信孝の遺骸見た広忠は、肉親追放したうえ討ち取ったことの無慈悲さ家臣たちに訴え号泣したという。信孝と忠倫が排除されたことによって、広忠は、同年中に織田方に下っていた梅坪城を攻略するなど勢力盛り返しつつあり、分裂した一族再結集させようとするが、翌天文18年1549年3月岡崎城内にて死去する(広忠死没に関しては、暗殺説病死説がある。暗殺説に関して岩松八弥参照)。 この報を受けた義元動き素早く無主となった岡崎城接収し同月中に太原雪斎を将とする1万軍勢松平勢を含む)を三河出陣させた。雪斎先ず軍勢一部岡崎城入れたうえで尾張からの援路を遮断するため、鳴海大高方面にも軍を派遣、さらに山崎城など周辺の城砦を攻略して(松平忠倫死後佐々木松平家継いだ弟の忠就は、今川方の動きをうけ愛知郡など尾張国内の知行放棄して今川氏臣従した)、安城城兵数不明)を孤立させた後、松平勢が先鋒となり城の北側より攻撃仕掛けた松平勢の奮戦によって、三の丸二の丸次々落とし本丸迫ったが、城将織田信広捕縛しようと焦る余り松平勢の主将本多忠高本多忠勝の父)が深入りしすぎ討死してしまう。このため松平勢が動揺し雪斎攻撃継続不可能と判断全軍岡崎まで撤退させた。 そして同年9月雪斎再度出陣する。このとき雪斎は、荒川義広拠点であった幡豆郡荒川山(現在の西尾市八ツ面山)に布陣した(当時矢作川川筋矢作古川であり、現在の流路は矢作古川排水不良に伴い江戸時代初期開削されたものである。ゆえに当時荒川山から安祥城までは地続きであった)。同月下旬今川松平勢は手始め織田氏協調してその軍勢加担していた幡豆郡東条吉良氏西条城攻略した城主吉良義安今川氏数代の敵であった尾張守護斯波氏と縁嫁を結んでおり、これを義元咎められたが、落城降伏し、親織田派の家臣処断義元許された)。今川松平勢は翌10月には碧海郡桜井まで進撃し南方から安城城へ迫る今川松平に対して織田方は、平手政秀を将とする援軍兵数不明)を派遣し頑強に抵抗するものの、今川松平勢の猛攻により11月中に安城城陥落城主信広は捕縛された。この際今川勢は火縄銃効果的に利用したとされる安城城落城後、同月中には、再び織田氏与していた上野城今川の手落ち翌年には刈谷城今川氏へ下るなど、碧海郡その周辺における織田方の勢力は総崩の様相呈し碧海郡における拠点としては尾張国境にほど近い重原城を辛くも維持するに留まった。これによって織田信秀による三河領国化の野望潰えることになる。 補足天文18年戦いについては、3月11月戦いまとめて数え場合と、各々別個の戦いとして数え場合がある。

※この「織田信秀による岡崎城攻落説」の解説は、「安城合戦」の解説の一部です。
「織田信秀による岡崎城攻落説」を含む「安城合戦」の記事については、「安城合戦」の概要を参照ください。

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