織田信行時代
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天文21年(1552年)の尾張下四郡を支配する守護代で清洲城主の織田信友との戦いでは、中条家忠とともに敵方の家老・坂井甚介を討ち取り、翌年には清洲城攻めで大将格で出陣し、30騎を討ち取る武功を立てた(萱津の戦い)。 信行を信秀の後継者にしようと林秀貞と共に画策し織田信長の排除を試み、弘治2年(1556年)8月に勝家は1,000人を率いて戦うが、信長との戦いに敗れて、降伏した(稲生の戦い)。この時は信長・信行生母の土田御前の強い願いで赦免され、信行、勝家、津々木蔵人は、墨衣で清州城に上り土田御前とともに、信長に礼を述べた(『信長公記』首巻)。以後は信長の実力を認め、稲生の敗戦後、信行が新参の津々木蔵人を重用し勝家を軽んじるようになったこともあって、信行を見限った。弘治3年(1557年)、信行が又も信長の排除を目論んで謀反の計画を企んだときには信長に事前に密告し、信長は仮病を装い信行は11月2日に清州城に見舞いにおびき出され河尻秀隆らに殺害された。信行の遺児の津田信澄は、信長の命令により勝家が養育することになった。
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