死罪の停止
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 16:53 UTC 版)
772年の格により、放火犯と盗賊に対しては新たに格殺(撲殺)が導入されたが、後者に関しては818年に他の窃盗・強盗とともに死罪が廃止された。 聖武天皇の治世であった725年、仏教を信じる天皇の意向で死罪の囚人を悉く流罪にしたのをはじめとして、死罪は五戒の「不殺生戒」の教えに反するとする考えが広がり、また儒教の徳治主義の考えとも相まって、810年の薬子の変で藤原仲成が処刑された(これについては、律令法に基づく死罪ではなく、嵯峨天皇による「私刑」とする見方もある)のを最後に死罪の判決が出されても必ず朝廷が流罪(遠流)に減刑するという慣習法が確立して(これが名実共に確立されたのは内大臣による太上天皇への襲撃事件にも関わらず、首謀者である藤原伊周の処刑が行われなかった996年の長徳の変であったとする見方もある)、以後平治の乱における藤原信頼らの処刑まで、中央の貴族社会のみにおいては死罪が停止された(→日本における死刑の歴史)。
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