摂社、末社、附属建物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 00:20 UTC 版)
以上の国宝建築物のほか、摂社、末社、附属建物など14棟(厳密には8棟と橋3基、塔2基、鳥居1基)が重要文化財に指定されている。本社周辺の海上に建つ建物としては、摂社大国神社本殿、摂社天神社本殿、朝座屋(あさざや)、能舞台、揚水橋(あげみずばし)、長橋、反橋があり、湾の入口付近には大鳥居がある。厳島神社の主要な建物は海域に建つが、地上部分にもいくつかの建物がある。本社背後の社務所近くには校倉造りの宝蔵が建つ。湾の東岸の塔岡(とうのおか)には末社豊国神社本殿と五重塔があり、丘の麓には末社荒胡子神社本殿がある。豊国神社本殿は「千畳閣」の通称がある本瓦葺きの大建築で、もとは「大経堂」と称された。湾の西岸には宝物館の裏手の高台に多宝塔があり、やや離れた大元浦には摂社大元神社本殿がある。五重塔、多宝塔、豊国神社本殿などの仏教建築が今も残り、神仏習合の名残をとどめているのが厳島神社の特色である。 摂社大国神社本殿 - 本社本殿の西に位置する。切妻造、檜皮葺。桁行3間、梁間4間。桁行3間のうち東の1間は幅が広く、南側に位置する長橋に通じる通路としている。室町時代の建立で、本社本殿と同じく元亀2年(1571年)、毛利元就の造営と考えられている。 摂社天神社本殿 - 大国神社本殿の西南に位置する。入母屋造、檜皮葺。桁行3間、梁間3間。弘治2年(1556年)の建立。他の社殿群が朱塗であるのに対し、本建物は素木造である。 朝座屋 - 本社本殿の東方、東廻廊に接して建つ。片側入母屋造、片側切妻造、檜皮葺。桁行8間、梁間4間。桃山時代の再建。 能舞台 - 本社拝殿の西方の海中に建ち、北側を除く三方を西廻廊に囲まれている。切妻造、檜皮葺。桁行・梁間とも1間。橋掛と能楽屋を伴う。延宝8年(1680年)、広島藩主浅野綱長の寄進により建立。1991年の台風で倒壊し、柱4本のうち3本は取り換え材である。 長橋 - 本社本殿の南西方、大国神社本殿と南の陸地部を結ぶ橋。桃山時代の建立。橋脚は石造だが、橋板、高欄等の木部は度重なる修理により新材に替わっている。 反橋 - 長橋の西方、西廻廊と南の陸地部を結ぶ弧形の橋。擬宝珠に弘治3年(1557年)の銘がある。擬宝珠は古いが、橋板、高欄等の木部は度重なる修理により新材に替わっている 揚水橋 - 本社本殿の東方、東廻廊と南の陸地部を結ぶ短い橋。桃山時代の建立。 末社豊国神社本殿 - 明治以降は豊国神社となっているが、もとは大経堂で、豊臣秀吉が天正15年(1587年)に戦没者の供養のために発願した建物である。秀吉が毛利輝元に命じて建立させ、実際の建築の指図は安国寺恵瓊によって行われた。この建物の鬼瓦には天正17年(1589年)の銘を有するものがあり、この頃までには建物の形ができていたと思われるが、その頃、秀吉が朝鮮への出兵を決意したことにより建築工事は中断し、細部の造作は未完成のまま今日に至っている。入母屋造、本瓦葺。柱間は桁行13間(背面は15間)、梁間8間、実長は桁行39.5メートル、梁間21.1メートルの規模を有し、外周には軒の出を支えるため軒支柱をめぐらせている。この建物は規模の大きさから「千畳敷」と通称され畳857枚分に相当する広さがあるが、床は畳敷ではなく板張である。内部は2間ごとに独立柱が立ち、中央奥に須弥壇を設ける。 宝蔵 - 校倉造。屋根は寄棟造、檜皮葺。室町時代の建立。 五重塔 - 応永14年(1407年)の建立。檜皮葺。日本の他の仏塔と同様、建築様式は和様を基調とするが、四隅の軒の強い反り、柱の粽(ちまき)、尾垂木の先端を三角形状に削る点など、細部に禅宗様の要素がみられる。 末社荒胡子神社本殿 - 一間社流造、檜皮葺の小社殿。嘉吉元年(1441年)の建立。 多宝塔 - 檜皮葺。大永3年(1523年)の建立。 摂社大元神社本殿 - 三間社流造、流板葺。大永3年(1523年)の建立。前方の庇部分を、正面は菱格子戸、側面は板壁で囲い、前室として取り込む形式が珍しい。 天神社本殿 朝座屋 能舞台 反橋 五重塔 多宝塔
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