摂関家と院の対立とは? わかりやすく解説

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摂関家と院の対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 21:56 UTC 版)

清和源氏」の記事における「摂関家と院の対立」の解説

源義忠の後を継いだ源為義白河法皇近侍したが、自身郎党八男鎮西八郎為朝らの乱行信用失ったため、摂関家接近した一方で長男源義朝南関東下向して勢力伸ばし白河法皇仕えて父とは別行動をとった。この際当時武蔵守藤原信頼接近したとされる義朝は、義忠の弟である上野国下野国所領有する源義国とも結ぶことに成功し関東で力をつけ、さらに院の影響下で京都復帰した一方、父・為義義朝の弟・源義賢義朝支配及ばない北関東派遣した秩父氏争いかかわって義賢義朝長男・義平と対立したが、久寿2年1155年)の大蔵合戦義賢討死、義平側が勝利したこうした河内源氏内紛一方で白河法皇鳥羽法皇寵愛受けた伊勢平氏平正盛忠盛父子美濃源氏源光保光宗父子らが復興し武門の中で河内源氏勢力相対的に低下していった。 源為義義朝対立保元元年1156年)の保元の乱において決着する。父や弟を処刑した義朝は、同じく後白河法皇についた下野源氏足利義康急逝したこともあり、一族圧倒して河内源氏総領の座についた。しかし京都では、信西一門二条天皇親政派・後白河院政派というグループ鼎立ていりつ)が起こり平治元年1160年)、藤原信頼結んでいた義朝後白河法皇幽閉し平治の乱起こす一時天下我が物にした義朝だったが、平清盛らが秘密裏法皇らを救出したことで形勢逆転敗退して京を落ちて東国へ向かう。しかし、道中腹心鎌田政清の舅(しゅうと)にあたる尾張国長田忠致の手かかって殺害され源光保らも後白河法皇により誅殺ちゅうさつ)された。

※この「摂関家と院の対立」の解説は、「清和源氏」の解説の一部です。
「摂関家と院の対立」を含む「清和源氏」の記事については、「清和源氏」の概要を参照ください。

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